夢や希望のないことの辛さ
前回、僕の辛かった学童期・思春期を支えてくれた歌として「ガード下の靴みがき」を紹介しました。そして、風の寒さや冷たさを耐えられた経験として新聞配達店の一年間の生活を紹介しました。貧乏には耐えられたのですが、「ああ 夢のないのが 辛いのさ」の「夢や希望」についてです。
高校受験のときも全く勉強しなかったのですが、多分ぎりぎりのところで僕は三重県立津高等学校に合格したのではないかと思います。入学後、中学校のときも入っていて大好きだった卓球部に入ったのですが、自己紹介が恐いだけの理由で卓球部を辞めました。クラブ活動も勉強も全くせず、孤独の中で生きましたが、ただ大好きなことはありました。熱中できることはありました。友だちがなく、孤独だったからできたことです。それは、読書と映画でした。
夏休みは三重県立図書館に入り浸りました。子どもの頃は児童世界文学全集、三国志や宮本武蔵、三木清の「三太郎の日記」など、いろんなジャンルの本を読みました。普段の夜は、全く勉強せずに映画館に入り浸りました。中学時代も映画館に入り浸っていたので、補導員や警察によく捕まりました。その頃のことは詳しくはまた書きたいと思いますが、当時の津市の映画館で上映された、アメリカ映画、ヨーロッパ映画のほとんどは観ていると思います。
極めて貧しかったのに、中学、高校時代全く勉強しなかった僕が、大学受験を目指したのは、何か夢があったわけではありません。ただ就職して働いていることがイメージできなかっただけです。何かを勉強したかった訳でもありません。
全く勉強しなかった僕が、二浪したとはいえ、明治大学に合格できたのはなぜでしょうか。2004年、僕たちの吃音ショートコースという2泊3日のワークショップに、講師として来て下さったトランスパーソナル心理学の諸富祥彦明治大学教授が、「伊藤さん、あまり勉強しなかった、勉強しなかったと言わないで下さい。よほど明治大学が入りやすい大学のようじゃないですか」と笑いながらおっしゃいました。「そんなに勉強しなかった伊藤さんがどうして大学に行けたのですか」と、石隈利紀筑波大学教授も何度も質問して下さいました。よく考えれば、人一番本を読み、読解力はついていたこと。映画をよく観て、日本や世界の歴史に興味があったこと。これらが、国立大学は無理でも受験科目が3科目の私立大学には通用したのかもしれません。「考える力」は学校の勉強以外で身についていたのでしょう。
大学には合格したものの、「夢や希望」が全くないままに、1965年夏、運命の東京正生学院の門をたたくことになるのです。今回言いたかったのは「夢や希望」が持てないことが、貧しさよりも辛かったということです。しかし、それは、1944年生まれの僕の時代のことで、現代は深刻な「夢や希望」が持てない時代に来ています。僕の時代は敗者復活ができました。大器晩成ということばもありました。今は、当時の僕のような貧困家庭では、とても大学など行けません。特別の才能がない限り「夢や希望」が持てない時代でしょう。当時、私立大学でも授業料は記憶違いかもしれませんが、年間4万円程度だったと思います。新聞配達店に住み込んで働きながら大学生活が可能でした。今は、とてもそのようなことは不可能です。まあ、それはそれとして、「夢や希望」について、宮城まり子さんは、その後素晴らしい活動を展開します。
1968年に私財を投じて肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立し、長年障害者福祉にかかわってきた、宮城まり子さんのことばです。衣食住の保証を中心にした日本の福祉と一線を画し、音楽、芸術、文化を強調して世の中に訴えました。福祉の世界で一番欠けていた「生きる意欲」、「夢や希望」を大切にしたのです。一貫して行ってきたのは、感性を育む教育で、子どもと歌を歌い、絵を描きました。ねむのき学園の子どもの描く絵は、世界児童画史上の「奇跡」だとも言われました。私の家には子どもの描いた緑鮮やかな一枚の絵皿があります。
毎年大がかりな子どもの絵画展を開いていました。ある時、絵画展で、宮城まり子さんは、来館者に次のように挨拶しました。
長年子どもたちの絵を見続けてきた、「週刊新潮」の表紙の絵で知られる画家の谷内六郎さんはこう言っています。
1955年にヒットした、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」。その歌を何度も折に触れ口ずさんでいた私は、当時はまだ「人気歌手」だった、宮城まり子さんに対して、この人は僕の苦悩、人の苦悩をよく理解できる人だと直感しました。そして、僕の直感通り、一つの歌のヒットや歌手や俳優生活では終わらず、93歳の生涯を閉じるまで、福祉活動に力を注ぎました。障害のある子どもの将来を案じ、その子どもたちの「夢や希望」をなんとか見つけ出そうとした人でした。
これまで僕を支えてくれたことへの感謝と、心からの冥福をお祈りします。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/12
前回、僕の辛かった学童期・思春期を支えてくれた歌として「ガード下の靴みがき」を紹介しました。そして、風の寒さや冷たさを耐えられた経験として新聞配達店の一年間の生活を紹介しました。貧乏には耐えられたのですが、「ああ 夢のないのが 辛いのさ」の「夢や希望」についてです。
高校受験のときも全く勉強しなかったのですが、多分ぎりぎりのところで僕は三重県立津高等学校に合格したのではないかと思います。入学後、中学校のときも入っていて大好きだった卓球部に入ったのですが、自己紹介が恐いだけの理由で卓球部を辞めました。クラブ活動も勉強も全くせず、孤独の中で生きましたが、ただ大好きなことはありました。熱中できることはありました。友だちがなく、孤独だったからできたことです。それは、読書と映画でした。
夏休みは三重県立図書館に入り浸りました。子どもの頃は児童世界文学全集、三国志や宮本武蔵、三木清の「三太郎の日記」など、いろんなジャンルの本を読みました。普段の夜は、全く勉強せずに映画館に入り浸りました。中学時代も映画館に入り浸っていたので、補導員や警察によく捕まりました。その頃のことは詳しくはまた書きたいと思いますが、当時の津市の映画館で上映された、アメリカ映画、ヨーロッパ映画のほとんどは観ていると思います。
極めて貧しかったのに、中学、高校時代全く勉強しなかった僕が、大学受験を目指したのは、何か夢があったわけではありません。ただ就職して働いていることがイメージできなかっただけです。何かを勉強したかった訳でもありません。
全く勉強しなかった僕が、二浪したとはいえ、明治大学に合格できたのはなぜでしょうか。2004年、僕たちの吃音ショートコースという2泊3日のワークショップに、講師として来て下さったトランスパーソナル心理学の諸富祥彦明治大学教授が、「伊藤さん、あまり勉強しなかった、勉強しなかったと言わないで下さい。よほど明治大学が入りやすい大学のようじゃないですか」と笑いながらおっしゃいました。「そんなに勉強しなかった伊藤さんがどうして大学に行けたのですか」と、石隈利紀筑波大学教授も何度も質問して下さいました。よく考えれば、人一番本を読み、読解力はついていたこと。映画をよく観て、日本や世界の歴史に興味があったこと。これらが、国立大学は無理でも受験科目が3科目の私立大学には通用したのかもしれません。「考える力」は学校の勉強以外で身についていたのでしょう。
大学には合格したものの、「夢や希望」が全くないままに、1965年夏、運命の東京正生学院の門をたたくことになるのです。今回言いたかったのは「夢や希望」が持てないことが、貧しさよりも辛かったということです。しかし、それは、1944年生まれの僕の時代のことで、現代は深刻な「夢や希望」が持てない時代に来ています。僕の時代は敗者復活ができました。大器晩成ということばもありました。今は、当時の僕のような貧困家庭では、とても大学など行けません。特別の才能がない限り「夢や希望」が持てない時代でしょう。当時、私立大学でも授業料は記憶違いかもしれませんが、年間4万円程度だったと思います。新聞配達店に住み込んで働きながら大学生活が可能でした。今は、とてもそのようなことは不可能です。まあ、それはそれとして、「夢や希望」について、宮城まり子さんは、その後素晴らしい活動を展開します。
「人間が人間らしく、幸せに、自分のもっている能力で暮らすことができて、それが文化的な生活なのね。福祉は文化じゃないのかなあと思ったの。当たり前のことを人間がしているだけのことじゃないの。社会の一員として、希望をもって暮らしていくことを目指していた」
1968年に私財を投じて肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立し、長年障害者福祉にかかわってきた、宮城まり子さんのことばです。衣食住の保証を中心にした日本の福祉と一線を画し、音楽、芸術、文化を強調して世の中に訴えました。福祉の世界で一番欠けていた「生きる意欲」、「夢や希望」を大切にしたのです。一貫して行ってきたのは、感性を育む教育で、子どもと歌を歌い、絵を描きました。ねむのき学園の子どもの描く絵は、世界児童画史上の「奇跡」だとも言われました。私の家には子どもの描いた緑鮮やかな一枚の絵皿があります。
毎年大がかりな子どもの絵画展を開いていました。ある時、絵画展で、宮城まり子さんは、来館者に次のように挨拶しました。
「子どもたちが大人になって、その中を生きていくことができるように、お守り下さいませ。大人になった子どもたちが、小さい間と違って、国が守って下さるお金は少なくなりました。これからこの子たちは、自分の職業を得なければなりません。職業を持つ、難しいです。でも、皆様、「福祉は文化」、私はいつもそう思います。文化的な日本になれるようにお願いいたします」
長年子どもたちの絵を見続けてきた、「週刊新潮」の表紙の絵で知られる画家の谷内六郎さんはこう言っています。
「それぞれの強烈な個性、そしてその天才ぶりは、光芒と光る別の国から来たような作品群に、言葉では言い尽くせない次元の高さなのです。30年来各地の児童画を拝見したぼくにとって、もっとも驚くべきことであり、世界児童画史上の「奇跡」です」
1955年にヒットした、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」。その歌を何度も折に触れ口ずさんでいた私は、当時はまだ「人気歌手」だった、宮城まり子さんに対して、この人は僕の苦悩、人の苦悩をよく理解できる人だと直感しました。そして、僕の直感通り、一つの歌のヒットや歌手や俳優生活では終わらず、93歳の生涯を閉じるまで、福祉活動に力を注ぎました。障害のある子どもの将来を案じ、その子どもたちの「夢や希望」をなんとか見つけ出そうとした人でした。
これまで僕を支えてくれたことへの感謝と、心からの冥福をお祈りします。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/12