夢がないのは辛い、でも、しっかりと歩いていこうと背中を押してくれた応援歌
新型コロナウイルスの連日の報道に、気分の重い日が続いています。
高齢者で糖尿病の持病のある僕は、ハイリスク対象者です。
でも、目の前のできることをみつけ、動いていこうと、気を取り直しています。ぼちぼちとブログ、書いていくつもりです。
3月21日、「ねむの木学園」園長、宮城まり子さんが亡くなりました。1955年に、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」がヒットしました。僕が吃音に本格的に悩み始めた小学5年生ごろの歌です。この歌は僕にとって生涯大切な歌となりました。どれだけ勇気づけられたかしれません。
ひとつのことば、ひとつの歌、ひとつの本、ひとつの映画、これらが人生の応援歌になることがあります。僕は人一倍吃音に悩んできたからでしょうか、応援歌がたくさんありました。自分で勝手にそれらを応援歌にしてきました。だから苦しくても生きてこられたのでしょう。たくさんの「本」「映画」「歌」「音楽」に支えられてきましたが、その中で子どもの頃からのものを挙げるとしたら、本なら下村湖人の『次郎物語』、映画なら『エデンの東』、歌なら『ガード下の靴磨き』でしょうか。
「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」
特にこの部分が僕の心には響きました。
ひもじさについて
僕の家はとても貧しくて、その日その日のお米を買うのにも困るほどでした。給食代を決められた日に持っていけないことがときどきあったのですが、担任の先生に「忘れました」と答えました。何日か繰り返すと、先生から叱られました。でも、両親が明るく、子どもに貧しさを感じさせないように育ててくれたおかげで、貧しかった割には、貧しさをそれほど意識しないで子ども時代を送ることができました。ただ大学受験となると別でした。吃音の劣等感があまりに強かったために、アドラー心理学でいう、劣等感コンプレックスに陥り、勉強も遊びも、スポーツも友だちとのつきあいもしないで生きてきたので、学力がありません。僕には真剣に勉強した記憶がないのです。貧しいので当然大学に行くとしたら近くの国立大学しかありません。でも、勉強していなかった僕が合格するわけがありません。浪人時代、がんばっても、勉強してこなかったツケはあまりにも大きく、2浪しても国立大学の受験は断念せざるを得ませんでした。
残されたのは、大学に行かずに就職することですが、とても就職できるとも思えません。最後の手段は、私立大学の受験に切り替えることでした。大学受験料もないので、一年間働いて受験料と入学金を稼ごうと思い、僕は三重県津市の田舎から、大阪に家出をするように出ました。津市から近鉄電車で上本町駅に着いて、駅の売店で朝日新聞を買い、新聞広告で配達員を募集していた豊中市の曽根駅の近くの朝日新聞販売店に電話をして働かせてもらうことにしました。この一年間の新聞配達店での生活は、今まで、何をするにしても中途半端だった僕が、唯一逃げ出さずに最後まで一年間、勉強なり、仕事なりを続けた実績でした。
冬の風の冷たい日や雨の日、まだ真っ暗の中での新聞配達は本当に辛いものでした。でもそれは、自業自得というか、吃音の悩みを口実に勉強してこなかった僕の責任です。自分で負わなければなりません。
ここで宮城さんの歌です。「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」の歌をよく歌っていました。何が辛いかというと、将来への夢、希望が全くなかったことです。大学受験も、社会人として働いている姿も、全くイメージできませんでした。その僕に「夢のないのは辛いよね」と、そっと包んでくれたのがこの歌でした。そして、「辛いけれど、それでもしっかりと自分の足で歩いていかなくてはいけないよ」と優しく、倒れそうな僕を支えてくれていたように思います。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/09
新型コロナウイルスの連日の報道に、気分の重い日が続いています。
高齢者で糖尿病の持病のある僕は、ハイリスク対象者です。
でも、目の前のできることをみつけ、動いていこうと、気を取り直しています。ぼちぼちとブログ、書いていくつもりです。
ガード下の靴みがき
赤い夕陽が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃ ネオンの花が咲く
俺ら貧しい靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
「ネ 小父さん みがかせておくれよ
ホラ まだこれっぽっちさ
てんで しけてんだ
エ お父さん? 死んじゃった…
お母さん 病気なんだ…」
墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も 小さなお札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のないのが 辛いのさ
誰も買っては 呉れない花を
抱いてあの娘が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんで この世の幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ
作詞 宮川哲夫 作曲 利根一郎
https://www.uta-net.com/movie/13833/
3月21日、「ねむの木学園」園長、宮城まり子さんが亡くなりました。1955年に、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」がヒットしました。僕が吃音に本格的に悩み始めた小学5年生ごろの歌です。この歌は僕にとって生涯大切な歌となりました。どれだけ勇気づけられたかしれません。
ひとつのことば、ひとつの歌、ひとつの本、ひとつの映画、これらが人生の応援歌になることがあります。僕は人一倍吃音に悩んできたからでしょうか、応援歌がたくさんありました。自分で勝手にそれらを応援歌にしてきました。だから苦しくても生きてこられたのでしょう。たくさんの「本」「映画」「歌」「音楽」に支えられてきましたが、その中で子どもの頃からのものを挙げるとしたら、本なら下村湖人の『次郎物語』、映画なら『エデンの東』、歌なら『ガード下の靴磨き』でしょうか。
「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」
特にこの部分が僕の心には響きました。
ひもじさについて
僕の家はとても貧しくて、その日その日のお米を買うのにも困るほどでした。給食代を決められた日に持っていけないことがときどきあったのですが、担任の先生に「忘れました」と答えました。何日か繰り返すと、先生から叱られました。でも、両親が明るく、子どもに貧しさを感じさせないように育ててくれたおかげで、貧しかった割には、貧しさをそれほど意識しないで子ども時代を送ることができました。ただ大学受験となると別でした。吃音の劣等感があまりに強かったために、アドラー心理学でいう、劣等感コンプレックスに陥り、勉強も遊びも、スポーツも友だちとのつきあいもしないで生きてきたので、学力がありません。僕には真剣に勉強した記憶がないのです。貧しいので当然大学に行くとしたら近くの国立大学しかありません。でも、勉強していなかった僕が合格するわけがありません。浪人時代、がんばっても、勉強してこなかったツケはあまりにも大きく、2浪しても国立大学の受験は断念せざるを得ませんでした。
残されたのは、大学に行かずに就職することですが、とても就職できるとも思えません。最後の手段は、私立大学の受験に切り替えることでした。大学受験料もないので、一年間働いて受験料と入学金を稼ごうと思い、僕は三重県津市の田舎から、大阪に家出をするように出ました。津市から近鉄電車で上本町駅に着いて、駅の売店で朝日新聞を買い、新聞広告で配達員を募集していた豊中市の曽根駅の近くの朝日新聞販売店に電話をして働かせてもらうことにしました。この一年間の新聞配達店での生活は、今まで、何をするにしても中途半端だった僕が、唯一逃げ出さずに最後まで一年間、勉強なり、仕事なりを続けた実績でした。
冬の風の冷たい日や雨の日、まだ真っ暗の中での新聞配達は本当に辛いものでした。でもそれは、自業自得というか、吃音の悩みを口実に勉強してこなかった僕の責任です。自分で負わなければなりません。
ここで宮城さんの歌です。「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」の歌をよく歌っていました。何が辛いかというと、将来への夢、希望が全くなかったことです。大学受験も、社会人として働いている姿も、全くイメージできませんでした。その僕に「夢のないのは辛いよね」と、そっと包んでくれたのがこの歌でした。そして、「辛いけれど、それでもしっかりと自分の足で歩いていかなくてはいけないよ」と優しく、倒れそうな僕を支えてくれていたように思います。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/09