吃音は普遍的なテーマ

東京ワーク みんな2 新しい年を迎えたとばかり思っていましたが、早、立春が過ぎてしまいました。暦の上では春ですが、どうも、明日あたりから今季最強寒波がやってくるとか、天気予報で言っていました。少し暖かかったので、寒さが応えるでしょう。新型コロナウイルスによる肺炎のニュースも続いています。皆さん、おからだ、大切に。

 1月13日の第8回東京吃音ワークショップのスタート、僕は、こんな話をしました。前から用意していたものではなく、参加者の輪の中に座り、ふと出てきたことばをつないでいったものです。

 
緊張しますね。
 1965年、今からもう54年前のことですが、僕は、どもりを必ず治る、治せると宣伝している東京正生学院に、治ることを期待し、治せると信じて行きました。30日間の合宿生活でした。東京正生学院に行けば、僕の人生は変わると思っていました。
 僕は、小学2年生の秋から21歳まで、吃音に悩んで、逃げてばかりの生活をしてきました。どもりと向き合うことからも、勉強することからも、人間関係からも、全て逃げて、どもりさえ治れば、これさえなくなれば、僕の人生は変わると思っていました。そんなに苦しくてつらくて大変だったのに、なぜ今まで生きてこられたのかと質問をよく受けます。きっと、どもりのままでは死にたくない、どもらなくなっている自分の姿を見たい、そんな思いがあったんじゃないかなと思います。それだけ、どもりを治す、治したいということにこだわり、憧れて、生きてきたのだと思います。
 そうだったはずなのに、僕は、東京正生学院を前にして、その中に入れませんでした。ここに入ってしまったら、自分のどもりを認めてしまうことになる、それは嫌だ。どもる人と仲良くなりたくないし、ほかの人のどもる姿も見たくない。そんな思いがわいてきて、入れません。不思議な感じでした。それで、東京正生学院の敷地をぐるぐると何回も何回も回っていました。警察官に不審者と間違えられるくらい、1時間か、1時間半くらいか分からないけれど、ぐるぐると回っていたような記憶があります。
 でも、やっと意を決して入ったら、そこは天国でした。大広間にいた20人くらいの人たちが、一斉に、どもりながら、「どこから来たのか」「何をしているのか」と声をかけてくれました。あれだけ嫌だったどもりなのに、どもりということばも、人がどもっているのを聞くのも嫌だったのに、そこでどもりながら話しかけてくれることばがからだに滲みてきて、僕も、どもりながら話していました。そのときのなんともいえない、包み込むような安心感を未だに覚えています。
 それからいろんなことがあって、今に至っているのですが、今日、ここへ来られた皆さんも、申し込んだ時点から今日まで、そして、今日、ここへの道すがら、いろんなことを考えながら、来られたことだろうと思います。
 僕たちは、大阪でどもる人の集まりである大阪吃音教室を開いていますが、その存在を新聞などで知った人が、なかなか来ることができず、2年、3年、4年かけてやっと来ることがあります。くしゃくしゃになった昔の新聞記事を持っている人もいます。それを見ると、いろいろな思いを持って、そして意を決して参加されたのだなと思います。自分の劣等感やしんどい思いをしてきたことに向き合うというのは、簡単ではありません。本当にしんどいことだろうと思います。私が経験してきたから、そう思います。
 その中で今日、それぞれの思いは違うと思いますが、意を決して、皆さんは来て下さいました。大阪吃音教室には、どもらない人も参加します。なぜかというと、吃音というのは、人間が生きる上での普遍的なテーマを持っているからです。それは、コミュニケーションであったり、ことばであったり、自分の価値観であったりします。吃音を通していろんなことが考えられます。そういう意味では、私たちひとりひとりは、どもる当事者であり、生きる当事者と言えます。みんな生きる当事者です。今皆さんが参加している、東京ワークシヨップには、どもらない人もいますし、ことばの教室の教員も言語聴覚士も保護者も、吃音とは一切関係ない人もおられます。それぞれの立場は違いますが、その中で、この時間、吃音を通して、生きることやことば、コミュニケーションについて、共に考えることができたらいいなあと思います。
 よろしくお願いします。では始めましょうか。


 どもる当事者と、生きる当事者。ふと出てきたことばですが、まさにそのとおりだと思います。吃音の持つ深く大きいテーマは、普遍的で、生きることと直結しています。だから、僕は、吃音にこれだけ長く関わり、追い続けているのだと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/2/5