「傾城反魂香」 文楽と歌舞伎の、吃音をめぐる最後の場面の違い
2020年1月17日10時半過ぎ、開場より少し遅れて中に入ると、たくさんの人がすでに会場にいました。平日の昼間、さすがに年齢層は高いのですが、この伝統、文化を大切に守ろうとしている人がたくさんいることを知り、ほっとしました。劇場でも、資料館に文楽の歴史や資料を展示したり、子ども向けのパンフレットを用意したり、人形を置いておいて動かすことができるようにしていたり、その様子を写真撮影する手伝いをしたりと、いろいろと工夫されているようでした。
ちょうど、六代目竹本錣(しころ)太夫の襲名記念だったようで、サイン会が行われていました。僕もパンフレトを買っていたので、サインをしてもらいました。パンフレットの中に、これまで錣太夫を名のった人の紹介がありましたが、最初は天保11年生まれ、明治16年没の豊竹錣太夫でした。ここでも、歴史の重みを感じました。伝統、文化の継承は難しいと思いますが、人形遣いの人の中にも、太夫や三味線を弾く人の中にも、比較的若い人がおられました。引き継いでいってほしいものです。
昼間の演目は、3つ。正月らしい華やかな、にぎやかな話が選ばれているようでした。
その中の『傾城反魂香』を楽しみにしていたのです。
あらすじは、次のとおりです。
この歓喜の舞が、傾城反魂香のクライマックスですが、歌舞伎と文楽は全く違ったものになっていました。
絶望の悲しみから、土佐の名字を与えられた歓喜にかわる、その祝いの舞が大好きなのですが、文楽では、改作されていました。仏像を二つに切り病を治したという故事にならって、師匠が手水鉢を二つに切り分けると、又平の口からは、師匠への感謝のことばがなめらかに出るようになりました。そして、吃音が治ったことの歓喜の舞になっていました。
僕は、文楽のこの終わり方より、歌舞伎の終わり方のほうが、断然好きです。片岡仁左衛門と中村吉右衛門の歓喜の舞は、いつまでも僕の中に残り続けています。
解釈の違いはあれ、近松門左衛門の時代からあった「吃音」や「吃音の苦しみ」。長い歴史を思います。その長い歴史を、どもる人は、どもりながら生きてきました。どもる人がどもりながら生きることの意味が、この世の中にはあるということなのだろうと思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/1/28

ちょうど、六代目竹本錣(しころ)太夫の襲名記念だったようで、サイン会が行われていました。僕もパンフレトを買っていたので、サインをしてもらいました。パンフレットの中に、これまで錣太夫を名のった人の紹介がありましたが、最初は天保11年生まれ、明治16年没の豊竹錣太夫でした。ここでも、歴史の重みを感じました。伝統、文化の継承は難しいと思いますが、人形遣いの人の中にも、太夫や三味線を弾く人の中にも、比較的若い人がおられました。引き継いでいってほしいものです。
昼間の演目は、3つ。正月らしい華やかな、にぎやかな話が選ばれているようでした。
その中の『傾城反魂香』を楽しみにしていたのです。
あらすじは、次のとおりです。
『傾城反魂香』は、『ども又』とも呼ばれ、どもる夫の絵師又平とそれを支える妻、お徳の夫婦愛が主題です。いくら又平がどもっても、人一倍口の立つお徳が通訳のようにしゃべるので、又平の悩みはともかく、日常生活に困ることはありません。二人三脚の仲のいい夫婦です。
弟弟子が、土佐の名字を授けられ、免許皆伝の書を与えられるが、又平は師に認めてもらえず、与えてもらえない。妻のお徳と共に、師に土佐の名字を与えて欲しいと頼み込むが、聞き入れられません。又平は、人がよく、絵の腕は抜群ですが、吃音のうえにあまり欲がない。せっかくの腕を持ちながら、東海道を旅する旅人たちに土産物になる絵を描いて生計を立てています。そんな弟子に師は覇気がないとみなして許可しないのです。
絶望した又平は死を決意して、この世の名残に絵姿を描き残そうと、手水鉢(手を洗う石の鉢)を墓標に見立てて自画像を描きます。それが、石を通して裏側にまで突き抜けていたために、師は、又平の筆力を認め、土佐光起の名を与えます。師から晴れて免許状の巻物と筆を授けられた又平夫婦は大喜び。又平は喜びの涙に暮れ、お徳の鼓に合わせて、心から楽しげに祝いの舞を舞います。
この歓喜の舞が、傾城反魂香のクライマックスですが、歌舞伎と文楽は全く違ったものになっていました。
絶望の悲しみから、土佐の名字を与えられた歓喜にかわる、その祝いの舞が大好きなのですが、文楽では、改作されていました。仏像を二つに切り病を治したという故事にならって、師匠が手水鉢を二つに切り分けると、又平の口からは、師匠への感謝のことばがなめらかに出るようになりました。そして、吃音が治ったことの歓喜の舞になっていました。
僕は、文楽のこの終わり方より、歌舞伎の終わり方のほうが、断然好きです。片岡仁左衛門と中村吉右衛門の歓喜の舞は、いつまでも僕の中に残り続けています。
解釈の違いはあれ、近松門左衛門の時代からあった「吃音」や「吃音の苦しみ」。長い歴史を思います。その長い歴史を、どもる人は、どもりながら生きてきました。どもる人がどもりながら生きることの意味が、この世の中にはあるということなのだろうと思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/1/28