自分のことばをこんなに温かく待ってくれる人がいる
もう一人の高校3年生は、こんな話をしました。
世間一般の吃音のとらえ方は、「どもらないように」言語訓練をします。キャンプに参加する子どもだけでなく、大阪吃音教室に参加する成人も、「どもれるようになって楽になった」と言います。ここに専門家と、どもる子どもやどもる人との大きな食い違いがあります。「どもることを否定し、少しでも改善すること」に重きを置く人にとっては、この感覚は理解できないかもしれません。
彼女は、サマーキャンプに参加して、「考え方は1回でだいぶ変わったけれど、2回、3回と回数を重ねるにつれ、ありのままの自分でいいという考え方が染みついていきました。よく考えてみると、いつの間にか吃音に助けられて自分がいるんだとなあと思います。悩んできたことも意味があるもので、無駄なことなんて何もなかったと思いました」と言います。高校生になると、キャンプでの話し合いも積極的になり、いろんな人としゃべりたいと思って、この3日間は過ごし、こんなにしゃべりたいと思った3日間はないと、キャンプを振り返りました。
彼女は、小学生のとき、サマーキャンプの卒業式を見ながら、泣いていたことがありました。卒業生に共感している姿を見て、僕は、彼女が卒業するときまではキャンプを続けたいなと思いました。いつの間にか、その年を迎えたことになります。その涙の意味は、彼女の作文でわかりました。自分にもこんなふうに卒業する時がくるのかなあとの期待の涙だったようです。
もうひとつ印象に残っているのは、彼女が書いた「英国王のスピーチ」を見ての感想です。僕は、たくさんの言語聴覚士養成の専門学校で、吃音の講義をしてきました。講義の前に、「英国王のスピーチ」を見て感想を書くという課題をよく出します。送られてくるレポートは、言語訓練によって吃音が改善され、開戦のスピーチができた、言語聴覚士の役割を果たせてよかったというものばかりですが、彼女は、作文で、こんなふうに書いていました。
言語聴覚士を目指すたくさんの学生のレポートを読んできましたが、「英国王のスピーチ」をこのようにとらえた人はいません。
僕は、講義の中で、「英国王のスピーチ」について、開戦のスピーチが成功したのは、ジョージ6世がどもってもいいと、どもる覚悟をしたからだと、話しています。詳しくは、日本吃音臨床研究会のホームページで、そのことを紹介していますのでお読みください。
彼女の6年のときの作文も興味深いものでした。
僕は普段から涙もろいほうです。卒業式の文章を読んでいるとき、その子どものキャンプでの様子が思い出されて、「よく成長したなあ」と思い、思わず泣いてしまうことがあります。今年は、久しぶりに泣いてしまいました。劇でひどくどもりながらがんばっていた彼女の姿が思い出されました。何度か話し合いのグループで一緒だったこともあり、これまでのことが思い出されて、卒業証書が読めなくなりました。代わってもらおうとしましたが「ダメ」と言われて、なんとか最後まで読みました。
小学校低学年から参加し、高校を卒業する年までつきあうと、子どもの成長の素晴らしさに毎年出会うことができます。その喜びで、これまで続けてきたのかも知れません。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/9/13
もう一人の高校3年生は、こんな話をしました。
私はこれまで自分と向き合うことが怖くて、逃げてばかりいました。言いたいことも言わないで、人との関わりを避けて生きていました。どもることが怖かったし、吃音は劣っているものと考えていたので、それに立ち向かう勇気がありませんでした。だんだん自分のことも嫌になり、学校では、いつ当てられるかひやひやして過ごしていたし、ずっとそこに神経を張っていて、一日が終わる頃には気疲れしていました。
私は、吃音親子サマーキャンプに参加して、明るくなりました。それは、自分のことばをこんなにあったかく待ってくれる人がいると気づいたからです。そして、キャンプだけでなく、日常生活でも自分のことばに耳を傾けてくれる人がいることに気づきました。今まで、人はどもる私の話なんか聞いても面白くないし、聞きたくないだろうと、勝手に思い込んでいました。ところが、キャンプで、人は聞いてくれるのだと思ってからは、人間関係も良くなり、前に比べてどもれるようになりました。どもらないように避けて通ってきたのが、どもれるようになって楽になったのです。
世間一般の吃音のとらえ方は、「どもらないように」言語訓練をします。キャンプに参加する子どもだけでなく、大阪吃音教室に参加する成人も、「どもれるようになって楽になった」と言います。ここに専門家と、どもる子どもやどもる人との大きな食い違いがあります。「どもることを否定し、少しでも改善すること」に重きを置く人にとっては、この感覚は理解できないかもしれません。
彼女は、サマーキャンプに参加して、「考え方は1回でだいぶ変わったけれど、2回、3回と回数を重ねるにつれ、ありのままの自分でいいという考え方が染みついていきました。よく考えてみると、いつの間にか吃音に助けられて自分がいるんだとなあと思います。悩んできたことも意味があるもので、無駄なことなんて何もなかったと思いました」と言います。高校生になると、キャンプでの話し合いも積極的になり、いろんな人としゃべりたいと思って、この3日間は過ごし、こんなにしゃべりたいと思った3日間はないと、キャンプを振り返りました。

もうひとつ印象に残っているのは、彼女が書いた「英国王のスピーチ」を見ての感想です。僕は、たくさんの言語聴覚士養成の専門学校で、吃音の講義をしてきました。講義の前に、「英国王のスピーチ」を見て感想を書くという課題をよく出します。送られてくるレポートは、言語訓練によって吃音が改善され、開戦のスピーチができた、言語聴覚士の役割を果たせてよかったというものばかりですが、彼女は、作文で、こんなふうに書いていました。
ところで、「英国王のスピーチ」という映画を見ました。どもりを治そうといろいろがんばっても結果は同じで、治りませんでした。でも、ジョージ六世は、どもっていても自分は自分と思い、どもってもいいやという気持ちがあったから、最後、国民に向かって開戦のスピーチができたのだと思いました。一番最後は、感動して泣きました。
言語聴覚士を目指すたくさんの学生のレポートを読んできましたが、「英国王のスピーチ」をこのようにとらえた人はいません。
僕は、講義の中で、「英国王のスピーチ」について、開戦のスピーチが成功したのは、ジョージ6世がどもってもいいと、どもる覚悟をしたからだと、話しています。詳しくは、日本吃音臨床研究会のホームページで、そのことを紹介していますのでお読みください。
彼女の6年のときの作文も興味深いものでした。
私はどもりのことを、恥ずかしいことだと思って、ずっと悩んでいました。でも、話し合いのときに、「神様がいて、その神様は百分の一の人にどもりをプレゼントするんだって。ぼくたちはそのプレゼントに当選した人だと思ったらいいよ」と言ってくれた子がいました。そのことばは、私の心にすごく響きました。
げきは、初めはわき役になろうと思っていたれど、目立つ役でもいいかなと思って立候補しました。初めからすごくどもって、なかなか劇が進みませんでしたが、私なりに一生懸命練習しました。当日、すごくきんちょう感をもって、いどみました。私は、せりふを言うのにせいいっぱいで、役に成りきれてはいなかったけれど、ものすごく達成感を味わいました。最後の卒業式では、卒業する高校3年生の姿を見ながら思わず泣いてしまいました。私もいつか、こんな卒業式の日がくるのかなと思うと、今からとてもわくわくします。
僕は普段から涙もろいほうです。卒業式の文章を読んでいるとき、その子どものキャンプでの様子が思い出されて、「よく成長したなあ」と思い、思わず泣いてしまうことがあります。今年は、久しぶりに泣いてしまいました。劇でひどくどもりながらがんばっていた彼女の姿が思い出されました。何度か話し合いのグループで一緒だったこともあり、これまでのことが思い出されて、卒業証書が読めなくなりました。代わってもらおうとしましたが「ダメ」と言われて、なんとか最後まで読みました。
小学校低学年から参加し、高校を卒業する年までつきあうと、子どもの成長の素晴らしさに毎年出会うことができます。その喜びで、これまで続けてきたのかも知れません。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/9/13