セルフヘルプグループでの経験を、ことばの教室で生かしてほしい
  〜全難言大会2日目午後吃音講習会〜

 前回の続きです。

 実際に、僕たちは、1965年にグループを作ったときは、治したいと願う人たちが集まってきました。しかし、会を作った創立メンバーたちは、民間吃音治療所の経験者なので、吃音を治すことが無理だとは分かっています。そこで、形ばかりしていた言語訓練的な例会はやめようと呼びかけ、話し合いを中心にした例会になりました。吃音を治すのではなくて、どう生きるかを考えようとしたことで、ずいぶんと楽になっていきました。
 言語聴覚士養成の大学や専門学校で話をしていると、「でも…」のことばをしょっちゅう聞きます。なんかどもりを治す、改善する訓練法があるんじゃないか、と期待をもってしまうようです。けれども、1903年から始まった組織的な吃音治療は、ほとんど失敗に終わっています。最新だと言われているカナダのアルバーター大学の吃音治療研究所「アイスター」でも、ゆっくり話すスピードコントロールしかなくて、3週間でできるようになっても100%再発すると、そこで治療にあたっていた言語聴覚士が報告しています。吃音の治療がどういう歴史をたどってきたのかを知っておくべきだと思います。

 午前中に話した、シーアンが出した吃音氷山説の行動、思考、感情の他に、僕は身体を入れました。緊張して話すときに硬直してしまう、人と出会うことを拒んでしまう体です。これらのものにアプローチすることができると考えます。また配布した資料に吃音の特徴をまとめました。読んでもらいたいと思いますが、吃音は自然に変わるものだと考えてもらったらいいと思います。どもらないように変わっていくことが多いです。どうしてかというと、僕たちはサバイバルといいますが、どもりそうなことばを瞬間的に言いやすいことばに言い換えたり、言いやすいことばを前につけたりしながら、なんとか目の前の人にしゃべっていこう、関わっていこうとするからです。アメリカの言語病理学は、それは吃音の回避行動という症状で、回避しないように治療しましょうと言いますが、とんでもないことです。どもる子どもたちが自然に身につけてきたサバイバル、工夫、それらを否定すべきではないと僕たちは考えています。

把握可能感
 僕たちはグループの中で、言語訓練ではなく、ずっと対話を続けてきました。あまりなかったですが、吃音の専門書もしっかり読み、英語の得意な人が翻訳した海外の文献も読んで勉強しました。他人はどもる人間をどう見ているのだろうかというアンケート調査をしたりして、僕たちは、対話を続け、吃音の問題は、どもることにあるのではないという洞察を得ていきました。吃音の問題を把握する力が育っていったから、「吃音を治す努力の否定」という、センセーショナルな問題提起ができたのでしょう。
 この僕たちのセルフヘルプグループでの経験を、ことばの教室で、子どもの指導にどう生かせるかを考えます。
伸二13 まず、把握可能感です。首尾一貫性は、「自分の生きている世界は首尾一貫して、筋道が立っていて、納得ができる」という感覚です。吃音は、どもったり、どもらなかったり、という波現象があり、自然に消えていく場合もあります。どもりが治るか治らないかは、分からないけれども、ひょっとしたら治らないでこのまま生きていく可能性はあるだろうなどと、自分の吃音の状態を把握することが把握可能感です。僕は、ことばの教室は、何をするところかと考えたとき、小学校なんだから、勉強するところだと思います。「君は、これから私と一緒に、吃音のことを勉強するんだよ」と言って、吃音の学習をする。吃音について現在解明されていることや、治療に関してどんな歴史があったのかを、社会科の歴史を勉強するようにする。また、社会にはいろんな困難を抱えて、それでも一生懸命生きている人がいる。「小児ガン」と子どもの頃に言われて、それでも自分できちんと受け止めて生きている人がいるなど、社会で起こっている様々な出来事も、子どもたちと一緒に勉強する。国語では、日本語の基本的な発音・発声について勉強する。これは、『親、教師、言語聴覚士が使える吃音ワークブック』(解放出版社)の本に、ことばのレッスンについてかなりのページをさいて書きましたので、ぜひ、参考にして下さい。
 また、吃音をこう考えて生きている人がいるという、どもる人の人生を知ることも大切です。どもる人がどんな職業についているかについて知ると、ああ、そうか、吃音は、それなりにつきあっていけるものだと、子どもは学んでいくだろうと思います。
 午前中の全国大会の吃音分科会の発表の中に、「吃音キャラクター」の実践がありました。自分のどもりのことを、また自分をどもらせるものをキャラクターにして、子どもは、その吃音キャラクターと対話をします。その中で、少しずつ、客観的に吃音を見ることができるようになります。

処理可能感
 これから起こってくる困難やストレスに、対処するための力が自分にはあり、また、SOSを出すことも含めて、私には助けてくれる味方がいる、そう考えたらなんとかやっていけそうだということです。自分で資源を発見し、また、できるだけたくさんその資源を作っておくことで、なんとかやっていけるだろうと思える感覚です。「吃音を知る」というDVDの中に、吃音親子サマーキャンプの様子が紹介されています。その中に、高校生3年生の子どもが、「これまでいっぱいつらいこと、苦しいことがあったけれど、これまでなんとかやってきたのだから、これからもいろんなことがあるかもしれないけれど、なんとかやっていけると思う」と作文に書いているのを紹介しています。これが処理可能感覚です。確実な根拠があるわけではないけれども、なんとかやっていけるだろうという思いを持ってもらいたいのです。
 処理可能感覚について、僕たちは、セルフヘルプグループで、新しく入った人を、春の創立記念祭、夏の合宿、秋の文化祭などの行事の実行委員長に任命して、新しい人たちだけで実行委員会を作って活動するようにしていました。電話をしたことがなかった人も、会場探しや、新聞社との交渉、講師への出演依頼などで電話をします。自分だけのためだったら動けなかったかもしれないけれど、行事のため、みんなのためならと、多くの人たちが行動をし始めます。行動していく中で、今までどもっていたら、からかわれたり、あまり相手にされないと思っていた人が、他者は案外話を聞いてくれるし、講師の依頼に行ったら喜んで来てくれることに気づいていきます。経験を通して、どもりながらでもちゃんとやっていけるんだというものが実感として湧いてきます。実際に行動すると、分かるんです。
 ことばの教室で何ができるかですが、子どもが尻込みしそうな課題に挑戦してみるということが考えられます。昨年の千葉のキャンプで、おもしろいことがありました。応援団長になりたいんだけれど、応援団長になると、みんなの前で、「フレーフレー」などと言って、リードしていかなくてはいけない。やりたいけれど、やれないと尻込みをする子に対して、どういう条件があったら、応援団長になれるか、一緒に研究しようと言いました。これが、当事者研究です。一緒に取り組めることを一緒に考えるのです。できるだけ大きな声を出すことに挑戦してみました。キャンプの場で、運動会を想定するのはちょっと恥ずかしいだろうけれど、「やってみよう」と言ったら、子どもたちは応援団長になったつもりで、ひとりずつ前に出て「フレーフレー」と大きな声を出していました。そんなふうに、自分の課題に挑戦する子どもに育てたいと思います。
 僕は、ずっと、ことばが育つのには日常生活の中でしかないと言い続けています。訓練室でいくら流暢性を形成してしゃべれるようになったとしても、ちょっと緊張する場面に出ていったらもうだめ、学校生活ではだめでは何にもなりません。般化といいますが、訓練室でやった効果を日常生活に活かすということが一番難しいんです。アメリカ言病理学でも、治療の限界と課題ということはずっと言われ続けていることです。訓練室で訓練をしない、言語訓練をしないとなると、ことばの教室では何ができるか、です。子どもが何をしたいか、何をしなくてはならないか、課題を特定し、それを遂行するための作戦会議を立て、今度何に挑戦するかというテーマを決める作戦本部がことばの教室です。実際に動くのは、学校生活やクラブ活動などの生活場面です。緊張する場面の中で発表したり、クラスの役割を果たすと、失敗したり悔しい思いをしたりして、ことばの教室に帰ってくるかもしれません。そのとき、励ましたり、勇気づけたりします。また一緒に、どういうことがうまくいかなかったのか、どういうふうにしたらうまくいくかと、当事者研究をします。失敗したと考えてしょげている子と一緒に、その経験を吟味します。「しんどかったね」と励まし、生活の中に出ていく背中を押す。一方的な合理的配慮のもと、みんなで気をつけてあげましょうという、ストレスのない社会では、自分が生きていく力は身につきません。配慮してもらえた時は良くても、環境が違えば、全く違う状況になります。
 僕たちの仲間に、ひとりの公務員の女性がいますが、今とても苦戦をしています。公務員は、3年ごとに、転職と同じくらいに、全く仕事の内容が変わります。人間関係もでき、仕事内容も分かって、順調にきていたのに、これまでとは全く内容が違う部署で、人間関係を作り、違う勉強をしなければならない。これは、大変なストレスです。そういうところに置かれた彼女は、今、苦戦しながらも、なんとか自分でやれると、自分で自分を支えて、13年間仕事を続けています。この公務員のように、ストレス処理可能な子どもに育ていきたいのです。
 ことばの教室の終了についてです。
 僕は、吃音を否定して逃げたり、やりたいことをやらなかったら損をするぞ、吃音氷山説を教えて、吃音を隠したり逃げたりしたら伊藤伸二のような悲しいつまらない人生を21歳まで送ることになるぞ、と、将来起こることを脅かしではないけれど、子どもに言います。吃音を否定していると起こってくる、将来の可能性について話す必要があると思います。いい話ばかりではありません。全く理解してくれない人は中にはいるからです。それでも、やっぱり理解してくれる人はいると信じて、社会に出ていくことを励ます、これは、ことばの教室の大きな役割だろうと思います。そうすることができたときに、なんとか安心して、ことばの教室を終了することができると思います。だから、ことばの教室の終了宣言をするとしたら、これからいろんなことが起こってくるかもしれない、でも、私は私なりに生きていけると思うと、子ども自身が言えたときでしょう。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/20