どもれる体
  全難言大会2日目午後吃音講習会


 「どもれる体になった」という表現は、聞いて変な感じがするかもしれませんが、僕はどもる人間でありながら、どもれない体になっていたんです。
伸二3 2年くらい前だったか、滋賀県・東近江市のことばの教室に行ったとき、子どもたちがたくさん質問してくれました。その中に、「伊藤さんは、いつごろ、どもりで困りましたか。どもりで困ったことはありましたか」という質問がありました。僕は、瞬間的に「僕、困ったことがないんだよ」と答えました。さて、「なぜ困ったことがないと、僕は言ったのでしょうか。想像してみて下さい」と質問をすると、大体、「あまり気にしてなかったからじゃないですか」と答えが返ってきます。そうではないのです。正解は、しゃべらなかったからです。つまり、僕は、どもりを隠し、話すことから逃げて、音読も発表はしないし、吃音とは関係ないのに、飼育委員や図書係もさぼっていました。逃げ一色の生活を送っていました。

 一番悔しい、悲しい記憶は、高校に入学して入った卓球部をすぐに辞めたことです。僕は、中学校時代も卓球部で、卓球をしているときだけが、気持ちが安らいでいました。だから、高校に入学したときも、すぐに卓球部に入りました。僕の話には、女性がよく登場するのですが、入学式のときに、かわいい人が僕の右前にいました。僕は、彼女に一目惚れをしたんです。うれしいことに、彼女も卓球部に入っていました。ラッキー、しめたと思いました。彼女と一緒に卓球ができると思うと、とてもうれしくなりました。男子コートと女子コートは離れていましたが、ちらちらと彼女の姿を見ながら卓球ができるのが幸せでした。でも、5月の初めか、4月の終わり頃だったかに、男女合同合宿があるという話を部長から聞きました。そのとき、僕はガーンと頭をなぐられたような気になりました。お分かりだと思いますが、男女合同合宿だと必ず自己紹介があるだろう。好きになった女の子の前ではどもりたくない。どもりがバレるは嫌だと思いました。当時、僕の高校は11クラスもあるマンモス校で、同じクラスになる確率は高くない。彼女と同じクラスにならない限り、僕のどもりはバレない。でも、合宿だったら、自己紹介がきっとある。僕は、自分の名前が言えないのです。いまだに、です。こうして人前で講演をしたり、NHKの番組で、2回もスタジオ出演もしていますが、未だに伊藤という名前が言いにくいのです。病院で、「伊藤さん」と呼ばれるから行っているのに、「お名前を、フルネームでお願いします」と必ず言われる。そしたら、「いいいい…」となってしまいます。また、僕は寿司が好きですが、好きな「たまご」が絶対言えません。今日こそは、タイミングを合わせて言おうと思うけれど、やっぱりだめで、違うものを注文してしまいます。未だに逃げているんです。

 名前が言えないことで悩むどもる人は、案外に多いです。他のことはすらすらしゃべるけれども、会社の名前が言えない、自分の名前が言えない、勤務先の部署が変わってその名前が言えない、などです。だから、どもりの症状が軽減され、あまりどもらなくなったということは、それほど意味がないのです。必ず、言えないことばが残り、完璧に治るということはありません。

 女優の木の実ナナさんが、映画「フーテンの寅さん」に出演したとき、あれだけ舞台や映画やドラマに主演している彼女ですが、「ア行」が言えないので、渥美清に「おにいちゃん」と呼びかけられない。「お」が出ない。2日間、撮影がストップしたという経験を、彼女は『下町のショーガール』の本の中に書いています。2日間撮影がストップするという辛さは、僕たちが学校で音読や発表ができなくて立ち往生するのとは全く質の違う大変なことだったと思います。関係者のホテル代など経費がかかるし、渥美清のスケジュールが狂う。彼女は、申し訳なさで一杯で、きっと暗澹たる気持ちだっただろうと思います。ミュージカルに主演し、舞台にも出て、しゃべれるようになってきているのに、それなのになぜ「お」が言えないのだろう。そう思いながら、宿舎に帰り、ひとり、花火をしているときに、山田洋次監督が来て、一緒に花火をする。線香花火をしながら、ふと、山田監督に話しかける。「監督、実は私は子どものころからどもりで、自分の名前が言えなかったり、国語の時間に音読ができなかったりして、苦しい思いをしてきました。おにいちゃんというせりふが言えないんです」。
 多分、「何々だよねえ、おにいちゃん」だったら言えると思います。だけど、「お」が語頭にくると、言えなくなります。言いやすいことばを前につければ出やすいのですが、山田監督は、台詞を変えず、自分が書いたとおりに言うようにというのがモットーなので、そんなことはできない。

 僕の大好きな片岡仁左衛門という人間国宝の歌舞伎俳優がいますが、彼も、子どものころから、歌舞伎俳優の家に育ち、いろんな舞台に立ち、ドラマにもいっぱい出ているのに、せりふが言えない。NHKの大河ドラマに出たときにせりふが言えずに、中村錦之助などの大御所からいろいろ言われて大変な思いをしたと語っています。それくらい、完璧にどもりが治るということは本当に難しいことだと思います。

 そうして、僕は逃げて逃げてきました。逃げて、しゃべってこなかったから、困らなかったのです。脱線しましたが、戻します。

 僕が「困らなかった」と言うと、子どもたちは不思議そうにします。そして、「なぜ困らなかったと思う?」と尋ねると、子どもは、「あまりどもっていなかったからじゃないですか」と言います。当然の反応ですが、「そうではないのです」と続けます。僕は、逃げて逃げて逃げ回っていたから困ることはありませんでした。子どもたちが、どもることで困るということは、一生懸命生きていることであり、何かをちゃんとしなければならないと思っているからであり、新しいことに挑戦しようと思っているからです。そんな子どもたちのことを、僕は心から敬意を表します。

 もうひとつ、僕にとって苦々しい思い出があります。高校のときの国語の教師はよく当てる人だったので、学校に行けなくなってしまいました。これ以上休んだら、進級できないというところまでいったので、先生の家を住所録で確認し、昼間に下調べをして、夜、訪問しました。「僕は、どもるので音読ができない。これ以上休むわけにもいかない。だから僕だけ当てないでほしい」とお願いをしました。今でも、その顔を思い出しますが、「うちの高校が、旧制第1中学校と言われた時代には、お前のような奴は入ってこなかったんだけどな」と言いました。そう言われたとき、僕は屈辱に震えました。だけど、その屈辱に震えることの代償に、僕は音読から免除されました。それで学校へ行けるようになり、ようやく僕は、高校を卒業することができたのです。僕は、どもる人間なのに、どもれなかった。「どもれない体」になっていたのです。逃げて逃げて逃げまくっていたから、くやしい思いをいっぱいしてきた。こんなことをしたかった、本当はこのことをしなくてはいけなかった、それなのに逃げてばかりいた。悔しいし、後悔しているし、許せない。そういう思いはあるけれど、どもることによってからかわれたりする経験はない。後悔には、ふたつの種類があると思います。何かに挑戦してうまくいかずに、こうすればよかったのにというような「後悔」。この後悔は後の成長につながります。僕の「後悔」は、やればできたかもしれないのに、せずに逃げた後悔です。逃げずにいたら、好きな卓球を続けることができたし、ひょっとしたら彼女と友だちになっていたかもしれません。しなかった「後悔」はずっと僕を苦しめました。どもる人間であるにもかかわらず、「どもれない体」になっていたことが、今になって、僕の苦悩の源泉だったと気づいたのです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/15