全難言大会2日目午後 どもる子どもとの対話−吃音哲学
全難言大会の2日目の午後は、午前中の分科会を受けた形で、吃音の講習会でした。
まず、僕は、「アンパンマンの歌、知ってる人?」と問いかけました。皆さん、きょとんとした顔でしたが、頷いている人がたくさんいました。「歌ってみましょう」と言うと、何が始まるのだろうと、訝しげでしたが、歌って下さいました。
幼稚園に通う年代の子どもたちがよく歌う歌です。これはすごいことだと思います。もちろん、幼稚園の子が詞を作ったわけではないけれども、何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないのは、そんなのは嫌だと言っています。
次に、僕は、「小さな哲学者たち」という映画を見た人がいるか、尋ねました。これは、フランスのある幼稚園で行われている哲学の授業の記録映画です。「愛」とは何か、「死」とは何か、大人と子どもとはどこがどう違うのか、など、大人が考えても難しいことを、幼稚園児が哲学という授業の中で、先生と一緒に話し合っているのです。話し合いに慣れていない子どもは、最初、戸惑ってはいますが、話をしているうちに、誰かが、「おばあちゃんが死んだときに、私は…」とか「ペットが死んだときにね、…」とか、具体的な話が出てくることによって、話がどんどん広がっていくのです。その2年間の記録映画です。子どもたちは、本当に楽しそうに話をしていました。そして、小学校に上がるとき、子どもたちは、「小学校に行くのは嫌だ。小学校には哲学の授業がないから」と言います。子どもは、話し合いなんてできないんじゃないかと、大人はつい考えてしまいますが、子どもは、こちらが問いかけて、子どもが反応したことに、えっと驚くなど反応して、また対話をしていくという繰り返しの中で、驚くほど自分のことを語り、いろんなことを考えます。
今、考える力、哲学する力がこれからますます求められていく時代なのだと思います。
「愛」「死」「自由」など、そんなテーマを設定しなくても、どもる子どもたちは、傷ついたり考えたりしてきているので、自分の吃音についてというテーマであれば、十分語れると思います。僕は、吃音親子サマーキャンプを29年間してきて、今年で30回目になりますが、話し合いの時間を大切にしています。小学校1年生の子どもたちでも、「さあ、今から、どもりについて話をするよ」と始めます。ゲームなどの何の前振りもなしに、いきなり「どもりの話をするよ」と言って、話し合いを始めるのです。
サマーキャンプでは、初日に90分、翌日に120分の話し合いをします。僕たちの吃音親子サマーキャンプは、サマーキャンプという名前がついているけれど、野外活動などの楽しいものではありません。プログラムはびっしりつまっています。2回の話し合いの他に、自分の思いを文章にする作文教室が90分あります。この時間は、自分ひとりで自分や自分の吃音と向き合うことになります。一生懸命考えるので、以前のことが思い出されて、何年かに一度は、泣き出してしまう子もいます。そうして、自分と向き合う3日間を過ごした後、子どもたちに、キャンプで何が楽しかったかと聞くと、ほとんどの子が「話し合いをしたことが楽しかった」と言います。どもりの話をすることは、とても過酷なことを強いているのではないかと、親や教師は思ってしまうかもしれないけれど、子どもたちは、十分に話し合うことができます。それができる子どもたちなのだと、僕は自分のキャンプの経験を通して、また、自分自身の体験から考えても、そう思います。
今回、この講習会でお話するテーマは、「哲学する子どもを育てるために」です。こうして、講習会での話を始めました。
最初に、健康生成論について話しました。

その導入として、農林水産省の元事務次官が、自分の息子を殺してしまったという悲惨な出来事の話から始めました。あの事務次官が、どういう「力」を持っていたら、ああいうことにならなかったんだろうか。近くの人と5分間だけ話し合ってもらい、何人かに発表してもらいました。初めに出たのが、「人に助けを求める力」でした。これは大事なことです。悲惨ないじめに遭いながら、自殺をした事件について、NHKがドキュメンタリー番組を放送していました。あれだけいじめられて、お金もとられて大変なのに、SOSを出せなかったのです。これからは、人の助けを求める力がとても大事になってくるだろうと思います。
次に出たのが「選択肢がない。こうかもしれない、ああかもしれないと思う力がない」でした。これから子どもたちは大変な時代を生き抜かなければなりません。どんなときにも、必ず複数の選択肢があるということを子どもに学んでほしいと思います。いじめに合って、どうしようもなくなって、死にたいと思っても、他に選択肢はないのかと考えられる子どもになってほしいのです。究極には警察を呼ぶ、学校を辞めるなど、いろんな選択肢があるのに、この道しかないと思ってしまうことは、とても不幸なことです。
人生の分かれ目で選択をしなければならないときには、複数の選択肢があるということ、常に子どもたちと一緒に考えてほしいと思います。普段の日常生活の中で、些細なことでも、できるだけ選択肢を拡げることを心がけることもいいことだと思います。
もうひとり「この家庭が、もっと地域に透明な状態だったらなあ」が出ました。自分たちの中に閉じこもらず、オープンであったらなあと、僕も思います。吃音の問題にも言えることです。自分の吃音のことをオープンにできる、語っていくということが、吃音の場合はとても大事になります。匿名性のセルフヘルプグループがあります。そうでないと安全が保たれないという「言いっ放し、聞きっ放し」をルールにするグループも実際にありますが、吃音の場合は、他のセルフヘルプグループとは違って、他の問題とは違って、自分のことを語り、対話をしていくことが大切です。よく吃音を理解してほしいという話がありますが、吃音とはこういうものだと誰かが、またメディアが、メッセージとして与えても、吃音の理解につながらないと思います。そうではなくて、自分自身が、目の前の人に語ることば、自分が語るどもりを、周りの人は理解するのです。だから、自分のことを語れる子どもに育てたいというのが、僕の思いなのです。
前段にこんな話をして、本題の健康生成論に入っていきました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/13

まず、僕は、「アンパンマンの歌、知ってる人?」と問いかけました。皆さん、きょとんとした顔でしたが、頷いている人がたくさんいました。「歌ってみましょう」と言うと、何が始まるのだろうと、訝しげでしたが、歌って下さいました。
そうだ うれしいんだ 生きる 喜び
たとえ 胸の傷が いたんでも
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて いやだ!
今を 生きることで
熱い心 燃える
だから 君は 行くんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きる 喜び
たとえ 胸の傷が いたんでも
ああ アンパンマン やさしい君は
行け! みんなの夢 まもるため
幼稚園に通う年代の子どもたちがよく歌う歌です。これはすごいことだと思います。もちろん、幼稚園の子が詞を作ったわけではないけれども、何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないのは、そんなのは嫌だと言っています。
次に、僕は、「小さな哲学者たち」という映画を見た人がいるか、尋ねました。これは、フランスのある幼稚園で行われている哲学の授業の記録映画です。「愛」とは何か、「死」とは何か、大人と子どもとはどこがどう違うのか、など、大人が考えても難しいことを、幼稚園児が哲学という授業の中で、先生と一緒に話し合っているのです。話し合いに慣れていない子どもは、最初、戸惑ってはいますが、話をしているうちに、誰かが、「おばあちゃんが死んだときに、私は…」とか「ペットが死んだときにね、…」とか、具体的な話が出てくることによって、話がどんどん広がっていくのです。その2年間の記録映画です。子どもたちは、本当に楽しそうに話をしていました。そして、小学校に上がるとき、子どもたちは、「小学校に行くのは嫌だ。小学校には哲学の授業がないから」と言います。子どもは、話し合いなんてできないんじゃないかと、大人はつい考えてしまいますが、子どもは、こちらが問いかけて、子どもが反応したことに、えっと驚くなど反応して、また対話をしていくという繰り返しの中で、驚くほど自分のことを語り、いろんなことを考えます。
今、考える力、哲学する力がこれからますます求められていく時代なのだと思います。
「愛」「死」「自由」など、そんなテーマを設定しなくても、どもる子どもたちは、傷ついたり考えたりしてきているので、自分の吃音についてというテーマであれば、十分語れると思います。僕は、吃音親子サマーキャンプを29年間してきて、今年で30回目になりますが、話し合いの時間を大切にしています。小学校1年生の子どもたちでも、「さあ、今から、どもりについて話をするよ」と始めます。ゲームなどの何の前振りもなしに、いきなり「どもりの話をするよ」と言って、話し合いを始めるのです。
サマーキャンプでは、初日に90分、翌日に120分の話し合いをします。僕たちの吃音親子サマーキャンプは、サマーキャンプという名前がついているけれど、野外活動などの楽しいものではありません。プログラムはびっしりつまっています。2回の話し合いの他に、自分の思いを文章にする作文教室が90分あります。この時間は、自分ひとりで自分や自分の吃音と向き合うことになります。一生懸命考えるので、以前のことが思い出されて、何年かに一度は、泣き出してしまう子もいます。そうして、自分と向き合う3日間を過ごした後、子どもたちに、キャンプで何が楽しかったかと聞くと、ほとんどの子が「話し合いをしたことが楽しかった」と言います。どもりの話をすることは、とても過酷なことを強いているのではないかと、親や教師は思ってしまうかもしれないけれど、子どもたちは、十分に話し合うことができます。それができる子どもたちなのだと、僕は自分のキャンプの経験を通して、また、自分自身の体験から考えても、そう思います。
今回、この講習会でお話するテーマは、「哲学する子どもを育てるために」です。こうして、講習会での話を始めました。
最初に、健康生成論について話しました。

その導入として、農林水産省の元事務次官が、自分の息子を殺してしまったという悲惨な出来事の話から始めました。あの事務次官が、どういう「力」を持っていたら、ああいうことにならなかったんだろうか。近くの人と5分間だけ話し合ってもらい、何人かに発表してもらいました。初めに出たのが、「人に助けを求める力」でした。これは大事なことです。悲惨ないじめに遭いながら、自殺をした事件について、NHKがドキュメンタリー番組を放送していました。あれだけいじめられて、お金もとられて大変なのに、SOSを出せなかったのです。これからは、人の助けを求める力がとても大事になってくるだろうと思います。
次に出たのが「選択肢がない。こうかもしれない、ああかもしれないと思う力がない」でした。これから子どもたちは大変な時代を生き抜かなければなりません。どんなときにも、必ず複数の選択肢があるということを子どもに学んでほしいと思います。いじめに合って、どうしようもなくなって、死にたいと思っても、他に選択肢はないのかと考えられる子どもになってほしいのです。究極には警察を呼ぶ、学校を辞めるなど、いろんな選択肢があるのに、この道しかないと思ってしまうことは、とても不幸なことです。
人生の分かれ目で選択をしなければならないときには、複数の選択肢があるということ、常に子どもたちと一緒に考えてほしいと思います。普段の日常生活の中で、些細なことでも、できるだけ選択肢を拡げることを心がけることもいいことだと思います。
もうひとり「この家庭が、もっと地域に透明な状態だったらなあ」が出ました。自分たちの中に閉じこもらず、オープンであったらなあと、僕も思います。吃音の問題にも言えることです。自分の吃音のことをオープンにできる、語っていくということが、吃音の場合はとても大事になります。匿名性のセルフヘルプグループがあります。そうでないと安全が保たれないという「言いっ放し、聞きっ放し」をルールにするグループも実際にありますが、吃音の場合は、他のセルフヘルプグループとは違って、他の問題とは違って、自分のことを語り、対話をしていくことが大切です。よく吃音を理解してほしいという話がありますが、吃音とはこういうものだと誰かが、またメディアが、メッセージとして与えても、吃音の理解につながらないと思います。そうではなくて、自分自身が、目の前の人に語ることば、自分が語るどもりを、周りの人は理解するのです。だから、自分のことを語れる子どもに育てたいというのが、僕の思いなのです。
前段にこんな話をして、本題の健康生成論に入っていきました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/13