吃音者宣言雑感
前回のつづきです。
吃音者の「どもり」へのとらわれは、一般に思われている以上に根強い。過去のつらい、苦しい体験と相殺するだけの楽しい、豊かな人生を送ることはそうたやすいことではない。
時には「どもりがなんだ」と開き直り、「どもりに生まれてよかったなあ」と感じる時もあり、又「なんでどもりに生まれてきたんやろ」と嘆く。まさに、山あり、谷ありの吃音人生である。
言友会の活動の中で、とびきり元気な人がいる。人一倍しゃべり、明るく、活発で、「この人、本当にどもりで苦しんできたんだろうか」と不思議がられる人がいる。しかし、その人が職場では、沈んだ顔をし、言友会にいる時のような積極性が見当らないという場合がある。
吃症状に「波」があるのと同じように、吃音者の気分の波はかなり激しい。
吃音を克服したと自他共に思い、言友会を去った人が、人生の転機でつまづき、民間のどもり矯正所を訪れるケースは事実ある。
「吃音者宣言」で言われる吃音を持ったまま生きるとは、山あり、谷ありの状態の中で、自分の弱さを自覚しながらも自分なりの人生を生きようと願い、そのために努力することである。
「決してどもりで悩まず、決して恐れず、常にたくましく生きる」ということではない。そんなにかっこうよく生きられるものではないのだ。
「『吃音者宣言』が出たおかげで「吃音者は、かく生きねばならない」と押しつけられているようで、現在の自分の生活に比べるとつらい。基本的にはこの生き方に賛成なのですが」と手紙を書いてきて下さった方がいた。この人は、前述の山あり谷ありの吃音人生を歩んでいながらも、「かくありたい」という願いを持ち続けている人であろう。
『吃音者宣言』は、宣言文でも述べているように、このように生きたいという『私たちの叫びであり、願いであり、自らへの決意でもある』どもりに対する考え方も、どもりそのものが多種多様であるように、様々であろう。その中で私たちは、あえて「このように生きたい」という一つの願いを出した。私たちは「このように生きています」という報告ではない。多くの吃音者にとって、あくまでも「吃音者宣言」は目標であり、又、それをめざす出発点なのである。
それを「あなた方は確かに『吃音者宣言』をしましたね。もうどもりに対する恐れや、苦悩はないのですね。自分の責任でたくましく人生を送るのですね」と言われるとあ然としてしまう。このような声もずいぶん耳にした。これは、どもりの持つ問題の根の深さを知らない人のことばであろう。
どもりの問題は、そんなに簡単に解決できるものではないのだ。それは吃音問題解決の歴史がよく物語っている。
かってない程多くの吃音者が言友会に参加し、どもりを語り、自分の人生を語り、家族からは「言友会に私の息子を取られた」と嘆かせる程に力いっぱい活動し、そこでどもりの問題だけでなく、他の領域からも、又、多くの人々からも学んだ。それでも、言友会が「吃音者宣言」を発して今後の吃音者の生き方を探る出発点に立つまでに十年かかっているのである。それ以前の歴史は更に長い。「吃音者宣言」のような生き方ができないと嘆くのはやめよう。ぼちぼちと自分のできるところからしか、自分を変えることはできないのだから。
もちろん、一人で、言友会が言っているような生き方をしている人は多くいる。全国吃音巡回相談会で、それらの人々と出会ったことが、相談会で得た最大の収穫でもあった。
しかし、山あり谷ありの吃音人生を送っている中で、どもりとの戦いに疲れ、「いかに生きるか」に悩んでいる人も又多い。
私たちの周囲の善意の方々へもお願いしたい。あまり性急に変化を期待しないでほしいと。「吃音者宣言」から、吃音者のたくましさだけが読みとられ強調されると、「治る」「治せ」と言われた時と同様の圧力を私たちは受けるのである。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/3/23
前回のつづきです。
吃音者の「どもり」へのとらわれは、一般に思われている以上に根強い。過去のつらい、苦しい体験と相殺するだけの楽しい、豊かな人生を送ることはそうたやすいことではない。
時には「どもりがなんだ」と開き直り、「どもりに生まれてよかったなあ」と感じる時もあり、又「なんでどもりに生まれてきたんやろ」と嘆く。まさに、山あり、谷ありの吃音人生である。
言友会の活動の中で、とびきり元気な人がいる。人一倍しゃべり、明るく、活発で、「この人、本当にどもりで苦しんできたんだろうか」と不思議がられる人がいる。しかし、その人が職場では、沈んだ顔をし、言友会にいる時のような積極性が見当らないという場合がある。
吃症状に「波」があるのと同じように、吃音者の気分の波はかなり激しい。
吃音を克服したと自他共に思い、言友会を去った人が、人生の転機でつまづき、民間のどもり矯正所を訪れるケースは事実ある。
「吃音者宣言」で言われる吃音を持ったまま生きるとは、山あり、谷ありの状態の中で、自分の弱さを自覚しながらも自分なりの人生を生きようと願い、そのために努力することである。
「決してどもりで悩まず、決して恐れず、常にたくましく生きる」ということではない。そんなにかっこうよく生きられるものではないのだ。
「『吃音者宣言』が出たおかげで「吃音者は、かく生きねばならない」と押しつけられているようで、現在の自分の生活に比べるとつらい。基本的にはこの生き方に賛成なのですが」と手紙を書いてきて下さった方がいた。この人は、前述の山あり谷ありの吃音人生を歩んでいながらも、「かくありたい」という願いを持ち続けている人であろう。
『吃音者宣言』は、宣言文でも述べているように、このように生きたいという『私たちの叫びであり、願いであり、自らへの決意でもある』どもりに対する考え方も、どもりそのものが多種多様であるように、様々であろう。その中で私たちは、あえて「このように生きたい」という一つの願いを出した。私たちは「このように生きています」という報告ではない。多くの吃音者にとって、あくまでも「吃音者宣言」は目標であり、又、それをめざす出発点なのである。
それを「あなた方は確かに『吃音者宣言』をしましたね。もうどもりに対する恐れや、苦悩はないのですね。自分の責任でたくましく人生を送るのですね」と言われるとあ然としてしまう。このような声もずいぶん耳にした。これは、どもりの持つ問題の根の深さを知らない人のことばであろう。
どもりの問題は、そんなに簡単に解決できるものではないのだ。それは吃音問題解決の歴史がよく物語っている。
かってない程多くの吃音者が言友会に参加し、どもりを語り、自分の人生を語り、家族からは「言友会に私の息子を取られた」と嘆かせる程に力いっぱい活動し、そこでどもりの問題だけでなく、他の領域からも、又、多くの人々からも学んだ。それでも、言友会が「吃音者宣言」を発して今後の吃音者の生き方を探る出発点に立つまでに十年かかっているのである。それ以前の歴史は更に長い。「吃音者宣言」のような生き方ができないと嘆くのはやめよう。ぼちぼちと自分のできるところからしか、自分を変えることはできないのだから。
もちろん、一人で、言友会が言っているような生き方をしている人は多くいる。全国吃音巡回相談会で、それらの人々と出会ったことが、相談会で得た最大の収穫でもあった。
しかし、山あり谷ありの吃音人生を送っている中で、どもりとの戦いに疲れ、「いかに生きるか」に悩んでいる人も又多い。
私たちの周囲の善意の方々へもお願いしたい。あまり性急に変化を期待しないでほしいと。「吃音者宣言」から、吃音者のたくましさだけが読みとられ強調されると、「治る」「治せ」と言われた時と同様の圧力を私たちは受けるのである。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/3/23