第20回島根スタタリングフォーラム  老舗鰻屋のタレ

 10月27・28日、第20回島根スタタリングフォーラムがありました。滋賀県で開催している吃音親子サマーキャンプは、来年30回ですが、それに次ぐ回数を重ねています。始めたときは、まさか20回まで続くとは、誰も思ってはいなかったのではないでしょうか。僕は、1回目からずっと参加しています。島根フォーラム 横断幕島根フォーラム 出会いの広場

 第7回島根スタタリングフォーラムを特集した『スタタリング・ナウ』(2006年1月、NO.137号)に、僕は、「老舗鰻屋のタレ」と題する一面記事を書いています。第1回目の親の話し合いの時間は、僕の一方的な講演でしたが、その後、話し合いや学習会的な要素が加わり、老舗の味わいが出てきたと書いています。7回でもすごいと思いましたが、今回、20回目を迎えて、僕も感慨ひとしおでした。
 島根には、たくさんの出会いがあります。第2の故郷とも言えるような場所です。人への信頼を取り戻せた体験として、僕がよく話をする「初恋の人」も、島根のこのフォーラムでの出来事でした。「初恋の人」も、紹介しようと思いますが、今回は、「老舗鰻屋のタレ」を紹介します。

    
老舗鰻屋のタレ
           日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
     2006年1月21日 『スタタリング・ナウ』NO.137

 どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトは、名称の変更はあったが、創立して40年になる。ミーティングである大阪吃音教室は、週1回のペースでずっと続いてきた。「吃音を治す、軽くする」路線から、「吃音と向き合い、吃音とともに生きる」路線へ、新たな視点での活動に切り換えてからも30年以上がたつ。
 毎週毎週40年も飽きませんかと尋ねられることがある。吃る状態に焦点を当てた取り組みを続けていたら、おそらく飽きたことだろうが、吃音と向き合い、「どう生きるか」を学び、話し合うことに飽きることはない。常に新鮮なのだ。大阪吃音教室の話し合いが、奥深く、かつ新鮮なことを、私は「老舗鰻屋のタレ」によくたとえる。
 創業100年の老舗鰻屋のタレは、創業時のものに、毎日新しいタレを継ぎ足し継ぎ足し、年を重ね、熟成されてきているという。100年前のものがごく微量でも残っていると思うと楽しい。
 大阪吃音教室も、40年、30年と通い続ける人からまだ半年や1ヶ月の人、今日初めて参加する人など様々だ。その人たちの人生が混じり合い、熟成されていくのがいい。新しいだけでも、古くからいる人だけでもダメで、違った年月を経た、さまざまな人がいることで、ミーティングの場は、ほどよいバランスとなり、独特の味わいを醸し出している。
 同じようなことが、滋賀県で、毎年夏に開き、16年になる吃音親子サマーキャンプの親の話し合い、子どもの話し合いにもみられる。初めて参加する人も少なくないため、最初の時間はその人たちのために使うことが多いが、だんだんと、複数回参加している人も話し合いに加わってくる。その体験に基づく話を聞きながら、新しく参加した人は、今まで気がつかなかった視点やものの見方・考え方に気づいていく。また、複数回の人は初心に返ることができる。これが、初めて参加の人、2度目の人、3度目の人と、いろんな経験をしてきた人が混在していることの素晴らしさだと言えよう。16年間続けてきた老舗の味わいだ。 昨年5月に開かれた第7回島根スタタリングフォーラムの親の話し合いで、このグループも老舗の味わいが出てきたと思えた。第1回は、私の一方的な講演だった。その後、話し合いや学習会的な要素が加わり、回を重ねてきた。
 当初は、親のこれまでの不安や悩みに耳を傾けることにほとんどの時間が使われ、親の表現を借りれば、「涙、涙の話し合い」だった。
 吃るのは母親のせいだと、児童相談所などで言われた人がいた。吃る子どもを持ち悩んでいること、将来に不安をもっていることを初めて話すことができた親もいた。子どもの吃っている姿を「かわいそう」で見ていられないというひとりの親の発言から、参加者全員が「そうだそうだ、かわいそうに思う」と反応したときもあった。「かわいそう」と思われる子どもの方が「かわいそう」ではないかと、時間をかけて話し合った。「どもりは一生治らない!!」と早朝登山で叫んだ小学1年生のことばにショックを受け、「連れてくるんじゃなかった」と私に訴えてきた親がいた。そのことを取り上げて話し合ったこともあった。
 誰にも話すことがなかった思いを存分に出し、お互いに聞く中で、共通の土壌が耕されていく。
 親の話し合いは、3時間の枠が2回あり、合計6時間。7年分をトータルすると42時間。じっくりと吃音と向き合ったことになる。参加回数の違う人たちがおりなす人生が響き合う、吃音についての話し合いは、吃音をテーマに親たちと人生談義をする趣だった。吃音をひとつの切り口にして親も自分の人生を語る時間だったように思う。 吃音について不安を出し合い、吃音についての知識を得る段階から、自分自身の人生をみつめながら、子どもについて語り合う、しっとりとした深まりのあるものへ。老舗の味わいはこれからも熟成し、まろやかなものとなっていくだろう。
 親の人生とは交わることのない、「吃音を治す、軽くする」路線からは、生まれない世界だ。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2018/11/1