価値観は押しつけられない
吃音親子サマーキャンプへの批判は前回紹介しました。批判の中に、子どもたちの「吃音を治したい、改善したい」と言うニーズを無視して、自分たちの「吃音と共に生きる」という価値感を押しつけている、というものがあります。僕たちは直接に「どもってもいい」とか、「吃音を受け入れよう」との話は一切していません。ただ、自分たちが経験して、考えてきたことを、「僕たちはこんな体験をした、そして、こう考える」と自分の人生を見せながら語っているだけです。
自分たちの「立ち位置」「価値観」を子どもに押しつけている。こんな批判が相変わらず聞かれるのは、実際に吃音親子サマーキャンプを体験しない人たちのことばです。是非、体験して欲しいと僕たちは考えています。
子どもたち、保護者やスタッフが吃音についての文章を綴っている90分、キャンプに初めてスタッフとして参加した人と、2回目程度の人を対象に、「吃音親子サマーキャンプ基礎講座」が開かれます。キャンプで大切にしていること、スタッフとしての心構えを学んでもらうためです。質問の中にこれまで途中で帰った人はいるのかというものがありました。27年の中、途中で帰った人が二人いました。ふたりとも高校生でした。その一人のことを詳しく話しました。
石川県教育センターに教員研修で行っていたとき、紹介された高校生は、不登校になって、教育センターでカウンセリングを受けていました。昼ご飯を食べながら話したとき、僕がどもりながら話すので、安心したのか不登校の原因が吃音だというのです。しかし、そのことは親もセンターのカウンセラーも知りません。吃音が原因で不登校になっているのを知られるのは絶対に嫌だというので、「自己成長のためのキャンプ」と名前を変えた案内を送って参加した高校生です。
その高校生が、早朝帰ると行って姿を消しました。スタッフは大慌てで探し回りましたが、最寄り駅のベンチで始発電車を待っていました。彼にとって、キャンプは負担だったのかと思ったのですが、一年後、石川県教育センターでの講義のために、宿泊したホテルに彼と、母親が尋ねてくれました。途中で帰ったけれど、キャンプの話し合いと、その夜知り合った高校生との交流で、彼は変わったそうなのです。その時のことを、以前のスタタリングナウに少し書きましたので紹介します。
とりあえず言い置く
「ぼくはまだ未熟な医者です。もっと勉強しなければなりません。でも、勉強はそう簡単なものではなく、上には上があります。先輩をみて、せめてあれくらいの腕をもちたいと思っても、なかなか辿り着けません。かといつてそこに辿り着いてから治療しようと思えば、その間、僕は医者としては働けません。未熟だけれど、とりあえず未熟なままで治療するほかはないのです。また、この病気はこうすれば治る、と自信がもてれば問題はないが、やってみなければ分からないのが治療です。この薬はこれまで同じようなケースでは効いていた。だから今度もとりあえず使ってみようと薬を出す。効かなければその時考えよう。8割方は効く薬を出すがく効かないことも有り得る。目の前のケースが効く人なのかそうでないかは、神のみぞ知るです」
一とりあえず主義とは一『ちくま』1998.10
精神科医・なだいなださんは、このようにとりあえず行動する生活の姿勢をとりあえず主義といい、自らを《とりあえず主義者》という。
私も、なださん同様、《とりあえず主義者》だが、さらに《言い置く主義者》でもある。
大阪教育大学・特殊教育特別専攻科の集中講義で、吃音親子サマーキャンプの体験を話した時、途中で帰った高校生のことにも触れた。すると、人にはそれぞれ時期があり、花でもその成長を待たなければならない。性急にその高校生に迫りすぎたのではないか、との率直な指摘があった。
吃音に悩み、何かを求めてきた高校生に、その時は誰が時期尚早か判断できずに、とりあえず、キャンプを勧めたのだった。明らかに、集団に入るのはまだ厳しすぎると思う例も時にはあるが、それほど多くはないからだ。
個人面接や大阪吃音教室で、吃音について、私たちのこれまでの実践や考えてきたことを話す。とても共感し理解してくれる人もいるが、反発する人もいる。これまで信じてきた考えと、かなり違う主張は、自らの体験を通さなければ、受け入れることは難しい。
吃音に悩む人に向き合ったとき、私がその人に何ができるかとても心もとない。吃音を治したり、改善したり、どもり方を変えるなど、とてもできないことだから、それはできませんとはっきりと言うことができる。また、吃音は治らないとは言えないまでも、私たちの吃音は治らなかったと、大勢のどもる人の体験をそのまま事実として伝えることはできる。
治らなかったものを治らなかったとは言えても、「〜ができる」は、本人が行動しなければならないことだけに、言い切ることは難しい。
「吃音は治らずとも、自分らしく吃音と共に生きることはできる。それを一緒に考え、行動することには私たちも一緒につきあえる」。こう言われても、これまで、吃音が治らないと人生はないとまで思い詰めてきた人にとって、容易には受け入れられないことだろう。それを承知の上で、分かってもらえるかどうか分からないけれども、とりあえずは言ってみる。このように「言い置く」ことしか私にはできないのだ。
20数年前までは、吃音に悩む人を前にして、自己の体験、多くのどもる人の体験をもとに、提案というより、「吃音を受け入れよう」と、説得をしてきたように思う。今は、とてもそのようなことはできなくなっている。
人が他者の吃音を治したり、軽くしたり、どもり方を変えたりできないのと同じように、どもる人の生き方にっいて、他者が変えることはできない。
私たちは自らの体験を語り、できるだけ多くの人の体験を紹介することしかない。その体験を知った人が、何に気づき、どう動くかは、その人自身のことなのだ。私たちの情報提供や提案に反発しても、私たちの考えは、体験はとりあえず伝える。
その人が何かの壁にぶつかったり、吃音と直面せざるを得なくなったときがチャンスだ。その機会がその人に訪れた時、私たちが言ったことを思い出してくれればいい。時期尚早かどうかは、その人が決めてくれるものだと信じて、今日も、とりあえず言い置くことを続けている。
1998.10.17 「スタタリング・ナウ」NO.50
日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2017/09/11