先日、山形県大会から帰って、今は吃音親子サマーキャンプの準備です。7月28日の、第46回 全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会 近畿大会がずいぶん前のように感じます。
近畿大会では、午前中の2時間30分、いくつかに分かれて講習会がありました。僕はその中の「吃音」の講習会です。気合いが入りすぎて、パワーポイントを用意しすぎました。僕はやはり、パワーポイントを使わずに、原稿なしで話す方が向いているようです。
その時の資料を、前半と後半の2回に分けて紹介します。僕が、現在、考えていることです。
将来を展望しての、どもる子どもへの支援
〜言語指導から哲学的対話へ〜
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
はじめに
吃音は、どもる程度も、吃音から受ける影響も、大きな個人差があります。かなりどもっていても、話すことの多い仕事に就いて、豊かに生きている人がいます。一方、親も伴侶も吃音と気づかない程度の人が吃音に深く悩んでいます。吃音は、症状が軽減することで生きやすくなり、悩みが少なくなるような単純なものではありません。どもる程度と、吃音の悩みや生活への影響の程度には相関関係があまりありません。
また、かなりどもっていた子が、担任が替わったり、友達関係がよくなることで、あまりどもらなくなったり、吃音の悩みからも解消されることがあります。吃音を治したいと強く願う人がいる一方で、「吃音を治したいと思わない」という高校生や、「吃音に悩んだから今の自分がある」という成人がいます。「これから悩むことはあっても、なんとかやっていけると思う」と、ことばの教室を終了していく子どもがいます。
吃音に悩むことがあっても、吃音と共に豊かに生きている人は実に多いのです。環境やその人の受け止め方に大きく左右され、変動性も大きい吃音を、症状の問題だとして、言語訓練だけで問題の解決を図ろうとすることには限界があります。
また、発達障害者支援法の支援対象に吃音が入り、成人のどもる人の動きにも変化が出始めました。障害者手帳を取得して障害者枠で就職したいという人や、障害者年金をもらって生活することを希望する人が出始めました。ことばの教室を終了した高校生から、障害者手帳が欲しいと相談があったと、ことばの教室の教員が驚いていました。私の開設する電話相談・吃音ホットラインも、就職活動で苦戦している女子大学生からの「障害者手帳が欲しい」など、発達障害、障害者手帳がらみの相談が増えました。
2013年、北海道で、勤める病院で吃音を説明しても理解してもらえないと、看護師が自ら死を選びました。とても残念な出来事でした。一方、地方自治体の消防学校で「そんなにどもっていて市民の命が守れるのか」と強く叱責され、消防学校時代に吃音を治せと迫られたが、私たち仲間の支えもあって、悩みながらも無事消防学校を卒業し、今は消防士として、立派に仕事をしている人がいます。この二つは極端な例ですが、吃音は吃音症状より、吃音をどう受け止めるかでその人の人生は大きく変わります。吃音の治療法はないが、対処法はあるということです。アメリカの言語病理学に学びつつも、これまでの実践を整理し、どもる子どもがどのような青年・成人に育っていくか、子どもの将来を展望して吃音の取り組みを再構築する時期に来ていると私は思います。
精神医療の世界の潮流−健康生成論
これまで当然のことと考えられていた認識や思想、価値観などが劇的に変化するパラダイムシフトが、精神医療、福祉の世界で起こっています。従来、精神疾患の研究、臨床は、病気の人の弱点や劣っている負の側面に力点が置かれてきました。つまり、病気と対決し、診断し、治療する「疾病生成論」でした。WHO(世界保健機構)は健康について、「肉体的、精神的、社会的にも満たされた状態」と定義しています。病気があっても健康に生きられることに着目し,その健康要因を解明しようとする「健康生成論」が今、注目されています。「健康因」として近年大きく取り上げられ、教育、医療、福祉の分野以外にも広がっているのがレジリエンスです。
ナチスの強制収容所から健康的に生き延びた人々の存在が、レジリエンス研究のはじまりですが、アメリカの心理学者ウェルナーの、ハワイ諸島のカウワイ島の研究で、世界的に注目を集めました。貧困、暴力など劣悪な環境のこの島で育った、1955年に出生した698名を長年にわたって追跡し、3分の2には脆弱性が見られたが、3分の1は、能力のある信頼できる成人になったと報告しました。この健康な人たちには、「逆境を乗り越えるか、心的外傷となる可能性のある苦難から生き延びる能力、回復力がある」として、弾力・回復・復元力を意味する「レジリエンス」が備わっていると表現しました。精神医療の世界では、環境に恵まれない、トラウマを負った子どもたちのレジリエンスをいかに引き出すか、育てるかが取り組まれています。
日本では、阪神淡路大震災で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)が話題になりました。東日本大震災では、子どものレジリエンスが注目されました。スクールカウンセラーとして被災地で活動した、臨床心理士の国重浩一は、心的外傷後ストレス障害は、世間が考えているほど多くない、多くは災害を自然現象と受け止め、しなやかに生きていると報告しています。さらに、つらい体験の中から、人としてより成長するPTG(心的外傷後成長)への関心も広がっています。「吃音に悩んだから今の自分がある」と語るどもる人が少なくないのはそのためです。この回復力に注目するレジリエンスは、回復力を探す目のつけ所として、「洞察、独立性、関係性、イニシアティヴ、創造性、ユーモア、モラル」を挙げました。
アメリカ言語病理学の限界
言語訓練だけで吃音の問題の解決を図ろうとすることに限界があることは、長い歴史のあるアメリカ言語病理学でも早くから分かっていました。1950年にはウェンデル・ジョンソンが言語関係図で、X軸:吃音症状、Y軸:聞き手の態度、Z軸:本人の受け止め方の立体を提示し、症状だけでなく、聞き手である環境、本人の吃音の受け止め方にもアプローチすべきだと提起しました。1970年にはジョゼフ・G・シーアンが吃音氷山説で、吃音は吃音症状の問題ではないと明確に打ち出しました。吃音症状は吃音の問題のごく一部で、本当の問題は、水面下にあり、吃音を否定的にとらえ、話すことから逃げる行動や、どもりは悪い、劣ったものとする考え方、どもることへの不安や、どもった後の恥ずかしい感情だとしました。シーアンは「吃音は治らないかもしれないが、消極的に生きる必要はありません。あまりハンディキャップをもたずに生きることはできます。そのためには吃音を受け入れ、話すことから逃げない生活をしていきましょう」と主張し続けました。
ところが、アメリカ言語病理学は、これらに基づいた吃音臨床を提案できませんでした。どもる人の脆弱性や吃音症状が、正常な発話モデルからすると異常であり、劣っている、欠如しているととらえ、それがその人全体のありかたにマイナスの影響を与えるとして、吃音症状の消失、軽減に依然として力点を置きます。
世界最新と言われる、バリー・ギターの流暢性形成技技法の「ゆっくり、そっと、やわらかく」の言語訓練は、1903年に始まった伊沢修二の楽石社の技法とほぼ同じで、100年以上私を含め、大勢のどもる人が失敗してきたものです。カナダの世界的な吃音治療専門センター「ISTAR(アルバーター大学吃音専門治療・研究所)」でも、ゆっくり話すスピードコントロールしか治療法がなく、4週間の集中治療の期間は、スピードコントロールができてあまりどもらなくなっても、100%が再発すると、センターで言語聴覚士をしていた池上久美子が報告しています。北米の吃音治療には「吃音と共に生きる」という発想自体がないといいます。
吃音の症状の改善だけで、人生を乗り切れるのは、比較的少数例です。少しでも改善できたら、その人は自信がもて、人生が楽しくなるほど、吃音は単純なものではありません。
幼児に対しては、オーストラリアから始まった、言い直しをさせて、どもらない話し方を身につけさせるリッカムプログラムが、日本でも取り入れられ始めています。少数の事例をもとに治療効果が公表されますが、これまでの環境調整や幼児期の自然治癒と比べてどう効果が違うのか、明確なエビデンス(科学的・統計的根拠)はありません。100年以上の吃音治療の歴史がありながら、吃音治療に取り組むどもる人、臨床家にとって、吃音は大きな問題であり続けています。
世界に誇れる、日本のことばの教室の実践
日本のことばの教室は、教育現場に設置されたこともあり、アメリカなどと違って、吃音を治すことにこだわらず、吃音と向き合い、子どもと一緒に吃音の学習をし、おしゃべりや遊びなどを通して、その子どもの自己肯定感を高め、吃音が改善されずとも、学校の場で楽しく過ごせることを目指しています。
私は、日本のことばの教室の実践こそ、世界に誇れるものだと考えています。ところが、近年「吃音を治したいと思う人に、完全には治らなくても、少しでも吃音を軽減させてあげることが必要だ」と、「吃音を治す・改善する」への提言が医療関係から復活し始めています。リッカムプログラムもその動きに連動するものでしょう。
あくまでも流暢性にこだわるアメリカ言語病理学に惑わされることなく、日本のことばの教室が、教育現場での実践をより確信をもって取り組むためには、「健康生成論」の中心となるレジリエンス(回復力・逆境を生き抜く力)を教育現場で育てることが大切だと思います。そのためのひとつの方法が、「哲学的対話」です。
どもる子どもが、ことばの教室の教師や家族や友人との対話や、どもる子どものグループの中での対話を通して、自分の気持ち、情報、価値観などを分かち合い、自分の体験を整理して、経験を言語化します。その中で、これまでは人生を左右しかねない大きな問題だったものが、自分の力で対処できるものに変わります。これは、これまで多くのどもる人や、どもる子どもが経験してきた、エビデンス(統計的・科学的根拠)のあるものです。それを近年の精神医療の世界のレジリエンスなどの研究が後押ししてくれています。これまでの実践に加えて、少しの時間、子どもと哲学的な対話ができれば、レジリエンスが育つことにつながるだろうと思います。
言語訓練より哲学的対話
劇作家・平田オリザは、『対話のレッスン』(小学館)で、「会話」は知り合い同士の楽しいおしゃべりで、「対話」は他人との新たな価値や情報の交換や交流だとして、日本には対話がないと言います。「仲間との会話はできても、他人との対話ができない子どもたちが、引きこもったり、精神的に病んでしまうことが起こる。対話が失われつつある現代にあって、教育現場で対話について教え、実践しなければならない」と対話のレッスンをすすめます。
子どもたちが今後話していく相手は、何を考えているか分からない他者で、相手が何を考えているかを知る方法が「対話」です。吃音について自分のことばで説明することをいとわない、対話する力を育てることは、言語訓練で吃音が改善されることよりはるかに大事なことです。
また、哲学者の中島義道は『対話のない社会−思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP新書)で、「あらゆる言葉によるコミュニケーションのうち、日本では、哲学的対話のみがスッポリ抜け落ちている」と指摘し、各個人が自分固有の実感、体験、信条、価値観にもとづいて語ることを哲学的対話だと言います。
哲学的対話の基本原理として、「人間関係が完全に対等である」「相手に一定のレッテルを貼る態度をやめ、相手をただの個人として見る」「相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にする」「いかなる相手の質問にも答えようと努力する」「相手との対立を避けず、むしろ相手との対立を積極的に見つけ、相手との些細な違いを大切にし、発展させる」「社会通念や常識に納まることを避け、新しい了解へと向かっていく」「自分や相手の意見が途中で変わる可能性を受け止める」ことなどを挙げています。 続く
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/08/10