昨日紹介した、神山先生からの、2016年の90歳のお祝いの会の参加者へのメッセージを紹介します。神山先生のご自身の歴史を語っておられて貴重です。お祝いの会には、吃音研究者・臨床家、言友会関係の人たちと大勢集まったのですが、ブログでも紹介しましたが、僕も会の最初の頃に神山先生との思い出を話しました。参加者全員へのメッセージに僕の紹介だけがあったこと、今更ながら、僕への期待、吃音への思いがあったのだと思いました。だから、大阪教育大学を退職すると伝えたとは、「勘当だ」とまで怒られたのでしょう。勘当された僕ですが、僕なりに、神山先生の意図された道とはちがっても、充分に「吃音道」を歩んできたと思います。

 73歳になつた今でも、沖縄、鹿児島、山形と、この夏声をかけていただいて、話す機会がもてること、吃音一筋に生きてきた、僕へのご褒美のように思えて、新しい出会いに感謝しているのです。では、神山先生からのメッセージ紹介します。

「思い意ずるままに」〜感謝をこめて〜神山五郎
                             平成28年5月26日


 只今、過日皆様と共に撮って頂いた集合写真をゆっくり見ております。瞬時に貴名を想起できなくても、色々なイメージが走馬灯のように浮かんで参ります。そして、その方々の歴史と時期を同じくする私の歴史が浮かんで参ります。

 敗戦後の自信のなかった日本で、吃音(どもり)その他の言語障害児者にとって、米国などのSpeech Therapy(スピーチセラピー)(言語治療)の動きは憧れの的でありました。その的のあたりを留学して学位までとって帰国した私は、まだ理解が必ずしも深くないことにも気づかず、猛烈に働き出しました。東京大学医学部・講師、国立聴力言語障害センター・言語課長などの職を与えられたことにも支援されました。丁度、東京オリンピックの年でした。

 恩師の切替(きりかえ)一郎東大医学部耳鼻咽喉科教授及び米国留学先のDr.Martin F.Palmer教授の御指導の深さを忘れることはできません。かくて米国仕込みの学問を翻訳しながら、処女地日本に導入し始めた次第です。当然、実践の結果色々な誤りを生じ、私課長をはじめ、課員は悩みました。すなわち、米国の教科書通りにやっても治らない言語障害が多々あったのです。この私の誤りが決定的になったのは、学会での指摘ではなく、言語障害児者対策の現場からでした。もっと具体的に記せば、私が国立聴力言語障害センターを数年で退職し、ごく近接して創設された東京都心身障害者福祉センター医学判定科長へ就任してそのことの重大さに気づかされました。

 東京都は、私共の新しい職場を含め、心身障害者への総合的対策を行うとPRして下さいました。その結果、私の前の職場のサービスを受けながらご不満のあった御本人、御家族の方々が、この新しいセンターの聴覚言語障害科・医学判定科へ来られ、医学判定科長の私が、ごく近くの国立聴力言語障害センターの言語課長であったことを知らず、ビシビシと治らぬことを指摘されたのです。申し訳なかったです。

 しかも、この件で目覚めさせていただき、転勤先の新しいセンター所長原田政美先生(医師)の「障害は治らないから障害という。治るのは病気である」との透徹したお考えに馴染んで参りました。従って、私の周囲で研修されていた方々、職員各位も混乱されたことと思います。

 さらに混乱を招いたのは「努力の否定」を私が言い始めたことです。「頑張れ」「頑張れ」…しかも結果は変わらない。今迄は、頑張り続けないのは意志が弱いからだという前提がありました。この「意志が弱い」を否定し「もっと楽しくやれる工夫をしようという好奇心」の大切さを私は主張し始めました。このあたりのことが原因で、神山の言うことが変化し御迷惑をお掛けしたことと存じます。結局「遊び」の重要性を私は初めて意識したのです。

 大阪教育大学の助手から講師まで、昇進し、私を含めて教授・助教授を助けて下さった伊藤伸二先生は、明治大学文学部歴史学科の御卒業で、大学の教職にありながら、NHK厚生文化事業団等から研究費を得て、大胆に研究されました。そして「吃音を持ちながらも日本の社会に堂々と生活している」方々を次々に発掘され、原田政美先生の卓見を一層理解し易くして下さいました。

 このような流れのうちに私はあって、次第に「吃音」だけに捉われていては視野が狭く、偏見を持ち易いと感じ、色々な隣接領域にも突進しました。「植毛」「脱毛」「新興宗教の治療効果」俗に言う「民間療法のメリット、デメリット」等々の体験的研究に励みました。この時代には「吃音」とのご縁は、相談業務で細々と続けておりましたが、著作、翻訳などはありません。さらに健康人の問題、「健康増進」に首をつっこみ、エアロビクス、ジョギング等のカタカナ語を導入したり、心臓疾患の保険適用等の現場的対応を体験したりしました。日本健康運動指導士会を皆で創設し、初代会長を10年以上務め、次にバトンを渡しました。名誉会長を頂いたこともありました。その間、不思議なことに東京都世田谷区千歳烏山に烏山診療所を創設し、15年以上も閉院できなかったのです。

 以上のような、自分勝手な猛勉強をしていた私に何故か見所があると推察されて今日までお見捨てなく見守って下さった方々がおられお集まりくださった。これが本会なのです。
 最後になりますが、全員の方々の御芳志、各位からのお葉書、お手紙、贈り物等々、恩情溢れるお言葉に私は感激しております。幸せです。

 感情が高まり、文も乱れ申し訳ありません。全員の方々からのネクタイ・ネクタイピンを使用したスナップ写真及び某研究会の檀上における写真をこの手紙に同封して郵送させて頂きます。
又、会う時まで、さようなら、お元気で! 五郎


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/08/08