参加者のひとり一人の力がいい対話に

 今年の岡山での吃音相談会は、主催者側が「参加者に恵まれていい相談会になった」と言っていたように、バラエティに富んだ参加者でした。

 まずは、岡山言友会の中心的なメンバーの人たちが、どもる人本人として、どもる子どもの保護者として、小学校6年生と高校2年生の、それぞれに思春期を迎え、また青年期に向かっていく今後の不安をもつ保護者の人たちです。その他に、小学校のことばの教室の教員、幼稚園のことばの教室の教員、初めて吃音と向き合ったという65歳の女性、吃音ではないが、緊張すると声が小さくなったり出なくなったりするという青年でした。これだけバラエティに富んだ参加者がいると、ひとつのことを話し合っても、それぞれの立場から、さまざまな意見を聞くことができます。とても刺激的な相談会でした。

 幼稚園のことばの教室の教員は、どもる経験をしていない私のに、どもる子どもやどもる子どもの保護者に、吃音の事実をどう伝えればいいか悩んでいました。当事者の声は説得力があるけれども、どもらない私には、なかなか腹を据えて、どもりは治らない、治せないということを伝えきることができないという悩みでした。私は、即座にその考え方は今日限り改めてほしいと話しました。どもる子どもの保護者でも、ことばの教室の教員でも、誠実な人であればあるほど、自分が吃音の体験をしていないことで、吃音の人の悩みを知らない自分がどれだけのことを伝えることができるかということに悩むことが多いようです。僕は、これは大きな間違いだと思っています。

 それは、当事者同士なら分かるかといえば、そうではないからです。どもることでの表面的な困難や辛さは、自分が経験しているので、想像することは、どもらない人より正確にできるでしょう。しかし、ほんとうのところ、その人の悩みや困難は分からないのです。吃音というひとくくりにして、とらえることはできません。ひとりひとり、さまざまな状況によって、困難や悩みは違います。かなりひどくどもっていて、日常的に常に不安と怖れにさらされて、どもるたびにしんどい思いをしている人には、ほとんどどもらないのに、大きな不安や悩みを抱えているということはなかなか理解できません。一方、普段はあまりどもらずある特定の音や場面でどもる人に、四六時中かなりひどくどもる人の悩みや苦労は、実際のところ分からないのです。どもるからとって、悩みや苦労が同じではありません。ひとりひとり違うのだから、どもらない保護者やことばの教室の教員が、どもる人の気持ちが分からないというのと同じように、どもる人だって、どもる他者の気持ちは本当のところ、分からないのです。つまり、全ての人々が、自分以外の他人のことは、本当のところは、わかり合えないというところから出発すればいいのではないでしょうか。

 だから、相手を理解しようとする誠実さこそが、保護者やことば教室の教師、言語聴覚士に必要だと思うのです。幼稚園のことばの教室の教員に、私は、「あなたもこれまで、挫折や失敗など、いろいんなことを経験しながら、ここまで教師として生きてきた。その実績は、あなた自身のものであり、その体験を踏まえて、誠実に、自分が知り得た情報や、どもる人やどもる子どもたちとのつきあいで得てきた知識を、話せばいい。そのとき、私はどもらないからという遠慮は不必要だ」と言いました。

 小学校のことばの教室の教員は、広島から来た人でした。周りの吃音を治す、改善するの波がかなり強まっているということを感じとっているのでしょう。「しばらく伊藤伸二の話を聞いていないので、久しぶりに伊藤の話を聞いて、自分自身への確認と、活力にしたい」と参加の動機を話していました。
 どもる子どもの保護者は、当然、思春期の子どもの将来への不安を持っています。親として、できることはあまりない、ただ子どもの力を信じて、子どもと一緒に吃音について悩み、考え、苦労し、そして、喜び、楽しみを共有することしかないと、今回の吃音相談会の全体を通して感じてもらえればいいなあと思って話をしていました。

 65歳の女性は、どもりながらも、最近になって私はどもりますと公表して、自分なりの対処のしかた、人間関係の結び方を身につけていた人でした。しかし、吃音を治したい、改善したいという思いを捨てきることができず、相談会に来た第一の動機は、少しでも吃音を治す、改善する方法を教えてほしいというものでした。一方で、吃音を認めて生きる生き方とはどのようなものなのかにも関心を持っていました。相談会での話し合いが深まるにつれて、途中での感想として,「吃音についてこれだけ真剣に深く話し合う吃音相談会とは想像していなかった」と発言していました。教師になりたいという大学1年生との面談を通して、また、周りの人たちのレスポンスを聞きながら、自分なりによく生きてきたなあと、自分の人生を振り返っていたようです。吃音を治す、改善する方法を教えてほしいと思って参加した相談会で、彼女は、180度考え方が変わったと言いました。そして、相談会終了後の喫茶店での語らいにも参加してくれました。思い起こせば、吃音と共にいい人生を歩んできたと振り返っておられました。

 吃音ではないけれども、緊張する場面で声が出なくなるという問題を持ち、何かヒントになるかと思って参加した青年は、自分の得意な英語を生かして、通訳者になりたいという夢、希望を持っていました。ところが、子どもの頃から、緊張する場面で声が出なくなるという悩みを持っていたため、その道をあきらめ、エンジニアになったと発言しました。この相談会で、吃音についての様々な考え方にふれ、自分の体験や問題と重ね合わせて考えて下さったようでした。彼も、終了後の喫茶店に来てくれ、今回の相談会に参加してよかったと言ってくれました。

 そして、何より、1時間近く、インタビューのような、面接のような、当事者研究のような形で、どもる私が教師になれるだろうかとの不安を持っていた、教育学部の1年生の女子学生は、吃音に対する考え方が180度変わったと言ってくれました。参加者の温かい応援のメッセージも、きっと彼女の胸にしみこんでいったことでしょう。

 ことばの教室の教師、保護者、初めて参加したどもる人、そして、吃音ではないが、似たような課題を持った人、そのような人たちと、吃音というひとつのテーマで話し合ったことで、声が響き合て、吃音で悩んだとしても、豊かな人生を送ることができるということには、合点をしてもらって、相談会を終えることができました。吃音に悩む人だけでなく、さまざまな動機をもつ人たちが、それぞれの思いで参加し、発言をしていったことが、フィンランドで行われているオープンダイアローグに似た働きをしたように、僕は思いました。まさにさまざまな立場からの複数の声が多声的にシンホニーのように響き合う、ポリフォニーになっていたと思うのです。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/6/23