僕はよく夢をみます。勉強ができずにいたころの夢を未だにみます。僕だけテストができないのです。また、講演をしている夢もよくみます。いい話をしている時もあり、メモをして置けばよかったと思うこともあります。起きて思い出してメモをするときもあります。
昨夜は、あるワークショップに参加して、「今後、ブログは毎日更新します」と決意表明している夢をみました。ブログを更新したいといながらできないことをかなり意識しているのだと思います。毎日とは無理でも、数行の短いものでも、写真だけのものでも、もう少し書こうと思います。
吃音がどんどん変な方向に進んでいく中で、僕にとっては、書きたいことは本当にたくさんあるのですから。
今回参加した、ナラティヴ・コロキウムについて、もう少し書きたいと思いますが、日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」に書く予定のものをまず紹介します。
僕は毎月発行する号の、特集・内容に沿った巻頭言を毎回書いています。もう270号を超えます。吃音に対する考え方は変わらないので、手を変え品を変えて書いていることになります。同じことを繰り返して書いていることには違いないのですが、その号の2ページから後に続く内容を意識して書いているので、いつも新鮮です。それだけ吃音の世界は豊かだということでしょう。
今月号は19回目の「ことば文学賞」の受賞作品の紹介です。それに沿って、ナラティヴ・コロキウムのことを書きました。コロキウムで考えたことをもう少し書くには、まずこの文章を紹介してからの方がいいと、今回は特別に、巻頭言を紹介することにしました。字数に制限があるので、かなりそぎ落としたものになっています。
物語る力
物語らなければ何も起こらない、始まらない。
吃音の悩みが、紀元前300年代から記録されているのに、明るい未来が展望できなかったのは、どもる人本人が自分の肯定的な物語を紡いでこなかったからだ。一方、吃音の悩みや困難、悲劇のネガティヴな物語は、民間吃音治療所が、自らの治療法、治療機関へと誘うために使ってきた。「吃音は治る、改善できる」の情報しかなかった時代であっても、吃音と向き合い、吃音治療の限界を洞察し、治すことにこだわらず「吃音とともに豊かに生きる」道筋に立った人は大勢いた。
1975年、全国35都道府県38会場で3か月をかけての、全国吃音巡回相談会で出会ったのは、そのような人々だった。600名近い人々との対話で、吃音に悩む人だけでなく、これら大勢の人々と出会えたのは、衝撃的だった。自分自身の吃音の苦悩の体験から、「どもる人は吃音に困り、悩んでいるはずだ」の思い込みを、私自身が強くもっていたからだ。吃音の悩みをバネに、大きな業績をあげた、著名人の体験は知られていても、私たちのように、特別の才能も能力もない、市井の人々の肯定的な吃音の物語は、ほとんど語られることはなかった。10年間のセルフヘルプグループでの活動の成果を踏まえて、これらの物語を社会に広く伝えたい。吃音改善にしか結びつかない、吃音のネガティヴな物語に終止符をうちたい。多くの吃音の苦悩を下敷きにして、吃音とともに生きる姿を、一つの肯定的な物語としてまとめたのが、私が起草文を書いた『吃音者宣言』だった。
『吃音者宣言−言友会運動十年』(たいまつ社・1976年)
吃音のネガティヴな物語は、病気や障害の物語として馴染みがあり、メディアも飛びつきやすい。ここ3年ほどの間に急速に広がった、吃音の悩みや苦労を紹介する新聞記事や、どもる人の治したいとのニーズだとして「吃音を改善する」動きは、50年前に逆戻りしたかのようだ。
ところが、精神医療、福祉の世界は、ナラティヴ・メディスン、ナラティヴ・アプローチ、当事者研究、レジリエンス、オープンダイアローグ、リカバリーなどと、これまでの精神医療や福祉から大きく転換しようとしている。吃音の世界は、脳科学で原因を探ろうとしたり、幼児期のうちに治癒をめざすリッカムプログラムへの関心が高まりつつある。旧態依然のアメリカ言語病理学から一歩も出ようとしない。その違いは大きい。
統合失調症だけは薬の力に頼らざるを得ないとの精神医療のこれまでの常識に対して、フィンランドのオープンダイアローグの実践は、薬に頼らなくても、医療チームと患者と患者家族とのオープンな対話を通して、理解の共有をしていき、対話によって回復した実績を報告する。そして、提唱者ヤーコ・セイックラは、オープンダイアローグが「技法」や「治療プログラム」ではなく「哲学」や「考え方」だとくり返して強調する。
この3月4・5日、駒澤大学で開かれた、「ナラティヴの広がりと臨床実践」と名づけられた、ナラティヴ・コロキウムには、大勢の精神科医、看護師、ソーシャルワーカー、臨床心理士、社会学者、人類学者など、幅広い人々が参加し、積極的に発言、議論をしていた。新しいものに挑戦しようとする専門家の姿が、私にはとてもうらやましかった。どもる人の悩みや問題の本質について、境界を越境して論議することがなぜ吃音の世界では実現しないのか。会場で話されるテーマや内容は、吃音に置き換えても何ら違和感はない。私たちも、言語訓練をせず、毎週ミーティングで対話を続ける中で、吃音は治らなくても、よく生きることができるようになった実績があるからだ。
ナラティヴ・コロキウムでは、病や苦悩を抱える人の語りを聞くための援助者の物語能力が必要だと、物語的訓練のワークショップがあった。
私たちの体験を綴ろうと始まった「ことば文学賞」は19年になる。
どもる当事者と、親、教師、言語聴覚士が共に物語能力を高め合うことができれば、これまで過小に評価されてきた当事者の体験の語りや、物語を紡いでいくことの意義にもっと光が当てられるだろう。そうすれば、吃音の世界もアメリカ言語病理学から脱却できるのだろうか。
日本吃音臨床研究会 月刊紙 『スタタリング・ナウ』 271号より
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/03/14