前回のトークの続きです。 後編
一ノ瀬 こうやって、先輩たちが、語りをしてくれることによって、ことばが移っていくじゃないですか。気づいて、ほんとに生身で語ることばが、自分のことばにもなってきている。安心できる場所とかことばとか、大事ですね。 映画の一番最初に、桟橋が出てきましたね。うわ、あれ、分かると思ったんです。私、漫画家なんですけど、売れるためにはどうしたらいいんだろうかと考えて研究はするんですけど、何かいつも心の中につっかえているんですよ。漫画を描こうと思っても、何かつっかえているものがいつもあるんです。
だいたい、売れている漫画って、作家性が満ちあふれていて、「ワンピース」を見たら、尾田栄一郎が把握できるくらいの作家性にあふれている。たぶん、みんなに通る、語れる、伝わることばって、あの垣根がとれているんだと思うんですね、今のところの私の研究では。私には、あるんですよ、垣根が。語れないんです。これ、得体が知れないんです、みつけられていないんです。いったい何が垣根になっているのか、探さなきゃいけないんです。あっ、また、べきべきしてるな。
伊藤 何か少し、その垣根が見えてきたりすることはないんですか。
一ノ瀬 あるんです。こうして、大阪吃音教室の方と話したり、この前のコモンズフェスタで「母娘問題」の人と話をしていると、この構図は見たことがある、この構図は、ものすごく自分に当てはまるというものがあります。たぶん、私は吃音ではないけれど、ターナー君、めっちゃ分かるよ、あるよ、その壁、みたいな。でも、何か分からない、それ、みたいな。
2枚目のカードを切らせていただいたのが、私には、今、壁があります。ちょっと生きづらいんです。何か分からない段階だからだと思います。時間をかけて、いろんな語りを聞いて、ほどほどにゆるゆると自分を認めつつ、ちょっと自分を語りつつ、いってみようと思いました。あんまりやり過ぎるとしんどいので。
伊藤 僕たちも大きな壁を感じながら、その正体がわからなかった。東野さんの話にあったように、僕たちはセルフヘルプグループの中で対話を続けてきました。ある程度の壁はわかっても、それ以上いけなかった時に、精神医学、臨床心理学、社会学、教育学、演劇など、他の領域から学ぼうとしました。
どもる本人たちだけで話し合っていたのでは、僕たちは、ここまでは到達できなかったと思います。どもる人たちが、自分の経験だけで語っていると、いかに勉強しようと何しようと、どうしても同じところでぐるぐると回ってしまう。世界の吃音の学者や臨床家たちが、いまだに「吃音を治す、改善する」の間で堂々巡りをしているのは、言語病理学という治療学というところにずっと居続けるから、見えないんです。
ところが、僕らは、もう20年前に、どもりとか言語障害学という枠を全部外して、たとえば、交流分析、論理療法、アサーション、森田療法、内観療法、ナラティヴアプローチなどを、吃音ショートコースと名づけた2泊3日のワークショップで学んできました。いろんなものを勉強していく中で、いろんなワークショップに出ていって、いろんな人の悩みを聞きました。その中で、吃音と、今このことで悩んでいるこの人の悩みとは同じではないけれど、さきほどおっしゃったように、壁にぶちあたって、なかなか人に言えなかったり、つかめなかったり、そういう感覚、とてもよく分かると思いました。他の領域との接触がない限りは、何かヒントがつかめないような気がしているんです。
一ノ瀬 應典院の寺町倶楽部という組織が存在しているのですが、そこの会則を拝見すると、「越境」ということばが、たぶん、出てきている。そういうテーマっていいよねと言っていて、なるほどなと思っていたのですが、今、すごく感じました。應典院ってそういうこと、できますよね。なぜか、私も、大阪吃音教室の方と出会いました。
ここ、お寺ですよね。なぜ、應典院で大阪吃音教室をしようとされたのですか。お寺だからと思われたわけじゃないですよね。
伊藤 全然そうじゃないです。詳しく話す時間はないですが、あるきっかけで、ご住職の秋田光彦さんに出会っていたからです。
一ノ瀬 應典院に集まる人たちは、越境をぽんとしてしまう。だって、ここも本堂でありながら、劇場であり、スクリーンをセットすれば観劇もできるし。この越境感、ちょっと大切にしていきたいですね。
最後のカードを切らせていただきたいんですけど。私たちの当事者研究のNPOでは、弱さの情報公開ということばで、弱さを語ります。吃音を語るとか、母娘を語るとか、研究するとも言うんですが、自分の中にある、はかなさ、弱さ、苦労というものの情報を公開する。私は、こういうはかなさ、弱さ、苦労をもっていますという情報を公開する。そして、その弱さでつながっている。ターナーさんがまさにされてましたね。自分の吃音のことを語ることによって、これまで存在しているのに見て見ぬふりをしてきた「カバ」がいるよねということから、カバつながりの社会をこっちで産む。今までカバなし社会で来たのを、カバあり社会で生きていく。これって、私個人としては、得も言われぬ、まか不思議な居心地の良さがあるんです。大阪吃音教室に初めて行ったときに、なんだ、この居心地の良さは、と思いました。何をしていただいているわけでもないのに、なんか得体が知れないが、気持ちがいいなあと思った。その正体はまだまだ分からないのですが。カバのいるグループを、皆さんは形成されていますよね。大阪吃音教室は、何年くらいされているのですか。
伊藤 49年くらいですか。
一の瀬 すごいなあ。これって、私から見ると、ひとつの社会的な現象というか、ひとつのコミュニティから社会になりつつあるんじゃないかと、勝手に思っているんです、流れとして。これって、どんな社会になるんですか。もし、弱さでつながる社会が実現するとします。社会は今、こういう定型が社会適合しているので、常識という、揺れ動いているけれど、得体の知れない圧力で定義されるじゃないですか。定型といわれているものに、さあ合わせろと言って、みんな、一生懸命合わせてますよね。そこから、一歩引いて、私は野党です、私はこういう弱さを持っていますとオープンにすることって、しくみとしてはだいぶんこれまでとは違う生き方だと思うんです。これが、社会になっていくんでしょうか。もし、なったらどういうことになるんでしょうか。私は分からないので、3人に聞いてみたいのですが。
東野 さっき、一ノ瀬さんが、ターナーと同じで、私も壁を持っているんですと自分のことを話された。それも、自分のどっちかというと、弱いものを出しているわけですよね。それを出せるというのは、とっても大切なことで、すばらしいと思っています。そういう弱さをもっている自分も含めて自分を認めないと、なかなか出せない。自分のどもりを否定し、認めなくて、最初のターナーのことばのように、見て見ぬふりをしていると、出せない。だから、自分を認めるということが必要なことだろうと思います。それと、吃音の場合は、これまで隠してきた自分の弱さ、できなさが、社会の中で隠すことができない瞬間があるんです。
たとえば、僕はそうでもないけど、自己紹介で自分の名前が言えない人はたくさんいます。これって、周りの人たちからみたら、えっ、なんで?と思うでしょう、自分の名前なんだから。でも、「私は、どもるから、名前の最初の文字が出ないんです」と公表しなければ、やっていけないところがある。追い詰められたら、言い方が変だけど、それを知らないふりをしていたら、あいつは変な奴だと、みんなから見られる。人間関係や仕事もうまく回らなくなってくるから、どこかで、自分のことを、自分のどもりのことを開示しなければいけない。弱いところを誰かに伝えないといけないとき、カミングアウトの瞬間がきます。このことを、大阪吃音教室で、お互いに分かち合っていることが、ひょっとしたら、弱さを共有していることにつながるのかなと思いました。
藤岡 ちょっと視点が違うかもしれないですけど、私が伊藤さんや仲間に出会って、一番よかったことは、現実を知ったことだと思います。さっき、お話したように、父親からの「どもるな」というメッセージは、結局、自分が自分に言っているもので、たぶん、目の前の人は、そんなに私がどもろうが、どもろまいか、関係ない。どもっても、関係も変わらない。そのことが分かったことが一番大きかった。それが分からなくて、想像の世界で、私がどもってしまったら、関係が変わってしまうのではないかと思うから、「絶対にどもっては話せない」、「どもりは隠さないといけない」だったのです。でも、そうじゃないということが分かったことが一番の収穫です。
今は、吃音で不便と思うことや恥ずかしいなあと思うことはもちろんあるんですけど、もう悩んでいません。映画にあった、どもらないスイッチがあったらどうするかという話ですが、もちろん、私が大阪吃音教室に出会う前だったら、すぐ押していたと思うんです。だけど、今、目の前にそのスイッチがあったとしたら、そういうスイッチがあるんやなあという感じで、別に押すとか押さないとかでなく、スイッチがあるという、ちょっと押してみたいけど、別に、押すことにそんなに意味がないというか、そのような感じになれたことが大きいです。
伊藤 もう後1、2分しかないので、弱さのことで少し話します。弱さを肯定しないと、たとえば、病気や障害や、何らかの劣等感やハンディを持っている人間は、競争社会という強い者の社会に押し込まれて、戦わないといけない。弱さを肯定する、弱さを認めない限りは、いつまでたっても、その競争の原理から抜け出られない。
さきほど、一ノ瀬さんが、大阪吃音教室に来て、ほっとしたとおっしゃって下さったけれど、とてもありがたいです。また、僕たちは27年間、吃音親子サマーキャンプをしてますが、参加した人たちがみんな口をそろえて言うのは、ほんとにここはほっとできる場だということです。僕たちにとってはこれが日常なので、「安心できる場」とよく言われると、それはなぜかと考えます。
「どもることが普通の、この世界がうれしい」とキャンプに初めて参加した高校生が言いました。どもることが認められて、悩んでいる弱さを認められ、弱音を吐くことができる。世間からみれば、弱いことを言う人を、誰も批判しない場、そういう場でないと、とても息がつけない、息を吹き返すことができない。
キャンプが終われば、また、大変な現実の社会に出ていくにしても、まずは一息、息を吹き返す場で、弱さを共に感じながら、お前も弱いのか、俺も弱い、そうだよねと言う。これまで弱さを認めたくなくて、見て見ぬふりをしてきましたが、その弱さを、何も自慢することはないけれど、弱さを認め合う場をどこかで持っていないといけないんだろうなと思います。そういう場が、大阪吃音教室であったり、吃音親子サマーキャンプの場であったりすると思う。
一ノ瀬 見ないふりをしないというのは、いいですね。今、日本は、笑い事ではない、様々な問題に直面しています。原発さん、どうするの? と思うのですが、すごく見ないふりをされる。見ないふりをしないという態度をみんなでとっていくというのは、
伊藤 大事でしょうね。
一ノ瀬 キーワードかもしれません。とても悩んで、研究もずっとかかるし、いろんな積み重ねもいるけれど、見ないふりをしないという態度を自分からとっていく。これはちょっといいキーワードとして考えられるかなと思いました。
伊藤 見ないふりをしない。現実が、どんなにつらくても、苦しくても、その現実に向き合う。僕たちの今年のテーマは、対話です。オープンダイアローグや、ナラティヴアプローチ、当事者研究の流れの中で、対話ということを重視して、一年間、考えていきます。価値観が違っている目の前の人間とも、粘り強く対話をしていきたいし、そして、何よりも自分自身の奥にある吃音そのものと対話をしたい。見えないふりをし、触れたくなかった、見たくなかった「カバ」や「象」をしっかり見て、そのものと対話をする。それは、ひとりでは難しいけれど、仲間がいればできるということではないでしょうか。残念ですがもう時間です。最後に一ノ瀬さん、何か一言あれば。
一ノ瀬 得体の知れない心地よさを感じる大阪吃音教室の皆さんと、得体の知れないご縁で、この場にいさせていただいている。こういう仕組みで新しい社会になっていくといいですね。みんなで、越境しながらいきたいですね。ありがとうございました。
伊藤 お疲れ様でした。ありがとうございました。
「映画上映とトークの夕べ」のトークすべてではないですが紹介しました。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/02/03