一ノ瀬かおるさんたちとのトークで話されたこと
人が集まるお寺として有名な應典院(おうてんいん)で、毎年幅広い団体が参加する、應典院コモンズフェスタ2017参加イベントとして、この企画がされました。
トークのゲストは、一ノ瀬かおるさんです。一ノ瀬さんは、漫画家として活躍する一方で、北海道浦河の「べてるの家の当事者研究」に強い共感と関心をもち、向谷地生良さん親子を大阪に迎えて事前の学習をするなど、準備を続けてこられました。そして、昨年10月、大阪大学で、530名が参加した「当事者研究全国交流集会大阪大会」を、運営委員長として開催されました。大阪の地に当事者研究を根づかせた人です。
壇上には、大阪吃音教室を運営する、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの会長、東野晃之さんと、コモンブフェスタの企画者のひとり、藤岡千恵さん。藤岡さんは、一ノ瀬さんが運営委員長として開催した全国交流会で「吃音の当事者研究」の発表をしました。僕が司会進行をしながら、一ノ瀬さん、東野さん、藤岡さんの4人でトークをしました。
まず、「The Way We Talk」(私たちの話し方)上映の後、一ノ瀬さんに興味をもたれたことを三つほど出していただき、それをキーワードに話し合うことにしました。その中の少しを紹介します。しかし、発言者に校閲を受けていませんので、多少のニュアンスに違いはあるかと思います。正確なものは後日、本人の校閲を受けて紹介する予定です。
一ノ瀬 ターナーさんと伊藤さんが語られることを順序で考えると、ターナーさんは、今、吃音についていろいろと気づいて、語っていこうとされたり、治療も受けられたりしてますよね。まあ、受けたり受けなかったりですが。でも、伊藤さんは、ずいぶん前から、もういいじゃないかというスタンス。それは間違ってはいないですか。(はい)
それを語るためにあえて言わせていただくのですが、たとえば、藤岡さんは、当事者研究の全国交流会の「吃音の当事者研究」で話されていたことによれば、子どもの頃から、どもらないように工夫して、吃音をコントロールして、シーアンの言う「カバ」を隠して、しゃべれる自分を作り上げましたよね。作り上げることも可能だとしたら、その方がいいというコメントもあると思うのですが。
伊藤 それはあります。アメリカの言語病理学やそれにつながる人たちは、周りからどもりだと分からなくなれば、それはそれで万々歳で、それができたらあなたのどもりの問題はなくなったと同じだから、それでいいじゃないかと言います。「かなりゆっくりとした話し方で、多少の不自然さはあったとして、どもるよりはいいでしょう。あなたは、どちらを選択しますか?」と迫ります。選択と言いながら、治療者としては「不自然なゆっくりの話し方でも、どもらない方がいい」との価値観をある意味、どもる人に押しつけていると言えなくもないんです。だから、アメリカでは、どもらないようにコントロールする方法を身につけさせようとするんです。
一ノ瀬 それは、理にはかなっていると思うんです。社会からの要求がきていて、それに合わせようとして、それを成長と位置づけ、みんなで努力して、さあ社会に適応できましたねという流れは、一般的に、私が子どもの頃からの基本的な社会からのスタンスなんですよね、社会の要求としては。それをあえて、そうではないと、伊藤さんたちは言われる。自分たちのどもりと向き合っていこうという、それは、どういうものなのでしょうか。
伊藤 専門家集団、治す立場にある人は、「ゆっくり、そっと、やわらかく」言う訓練で、どもらないようになったら、それで何の文句があるのかと言うんです。ところが、当事者、本人にしてみれば、そういうふうに、「どもらない方がいい」の価値観に縛られて、どもらないように気をつけて、話をしている自分に疑問を感じはじめます。これが本当に自分なのか、世間に合わせて、世間に合っていることばを、外国語でも学ぶように学んでしまった、この僕のことばは、自分のことばじゃないと思うときがあるんです。
小学生の子どももそうで、ロボットのようなしゃべり方は、僕はしたくないと言ったりします。ある子は、小学生で気づいたり、ターナーは25、6歳で気づいたり、僕は21歳で気づいたり、スキャットマン・ジョンは、52歳で気づいたり、この年齢の幅があるのは一体何なんだろうと思って、すごい不思議なんです。
一ノ瀬 私は、当事者研究の取り組みを、NPOを立ち上げて、みんなでやったり、もちろん私も一緒にやっています。その中で出てくるのが、「定型さん」とか「社会的な与党」とか、「べきものさし」とか表現しますが、そういうものさしをみんな持っているということです。たとえば、この場面では、どもらずにさらっと言うべきだとか、自分の中にそういうものさしをストックしている。そのものさしが多ければ多いほど、それは、おりのようになっていく。おりの中で、「べきものさし」に囲まれている。でも、べきものさしが言っていることって、社会の与党なんです。大多数で正しいように迫ってきます。「そうするべきだよね」と言ったら、みんな、「う、うん」(不本意ながらも、みんな賛成するみたいな)と言う。べきものさしを抱えていくことの不都合は、それがおりのように頑丈になっていくことと、そのものさしで、今度は他人をはかってしまうことです。
私はこういう「何々すべき」で生きているのに、なぜあなたはこの「べき」を使わないのかなということになり、心のすさんだサイクルが起こる。それは吃音だけじゃなくて、いろんな所で発生している。社会の与党からの要求と、自分が野党だから、人数が少ないから、与党に屈するべきかとか。これもべきべき、です。こういうことがいろんなところで起こっている。だから、あえて、お伺いしたかったのです。
ターナーさんは、自分で語りを始められましたね。しゃべろうとされていた。これは、相当難しいんじゃないかと思うんです。私は、この映画のタイトル「私たちの話し方」と聞いて、うっかりの吃音の話し方ってこうだよね、定型の話し方ってこうだよねという、そのことを言っているかと思ったら、違ってました。
自分の中に何があって、自分はどういう苦労を抱えているか、まず自分が明らかにする。あきらめるんですよね。明らかにして、それをそのまま受け取って、さらにそれから語っていこうとする。この話すところに行くまでに、何段階もあると思うんですが、これって、ただ事じゃないと思います。
ちょうど、数日前、ここ應典院で、「母娘問題」を取り上げ、それを語ってみようというイベントをしたんです。母娘問題ってご存じですか。
娘が母の要求してくる人生をそのまま生きようとしている。自分の人生の優先順位が、母が求めるものになってしまっている。そんな優先順位をもって生きてしまう娘たちの苦労なんだけど、それに気づくまでにすごい時間がかかります。私は、母の要求で、今、服を選んでいる、この進路を選んでいるということに、娘本人が気づいていないんです。もう一体化してしまっているから。でも、「母娘問題」を語るとき、そこを分離して、さらに自分の中を見て、どうなっているか観察していくんです。えらい作業なんです。このあたりの苦労を、どういうことをされてきたのか、どういうしんどさがあったか、聞かせて下さい。
東野 さっきの話に、「べき思考」というのがあったでしょう。人前で、どもって話すべきではないという、そんなことは、僕たちにいっぱいあるわけです。もちろん、それに囲まれていると、話せなくなってくる。それから解放されないとまず語ることができない。今回の配布資料の中にありますが、ジャーナリストの斎藤道雄さんが、「すべきだ、治すべきだ」というのは、自分のことばではなく、他人のことばなのだと言っているんです。さきほど、与党という話があったけれど、まさしくそういうことで、他人が言っていることです。大多数の人はおそらくそんなふうに考えるだろうという考え方です。一方、僕らが治すことにこだわらなくて、自分はこのままでいいんじゃないか、そんなにがんばらなくていいんじゃないかというのは、他人のことばではなく、私のことばなんですよ。その違いについて斎藤さんは書いている。
とてもよく分かるなあと思う。「べき」に囲まれているとき、大きな劣等感をもっているときは、自信がないので、人と吃音についての対話ができない。でも、セルフヘルプクループに来て、どもりながら話をしたことを真剣にみんなに聞いてもらい、中には、「お前、なかなか良いことを言うな」とほめてもらったりする。そんなことがあると、自信ができてきて、少し吃音について語れるようになるという経験をしたことがある。その積み重ねかなという気がする。
藤岡 私も、やっぱり自分のどもりを絶対に明るみに出してはいけないという時代が長くて、その頃はもう、「べきものさし」だらけで、ちょっとでも、どもってしまったら、終わりだという感じだった。この映画、すごく奥が深いなと思うのは、自分との対話というか、「どもるな」というのは、結局自分が自分に言っていることばなんですね。私は、父が「ゆっくりいいなさい」と言い直しをさせたことをずっと、父が、私の吃音を否定して、そういうメッセージを送ったと思っていました。だけど、少し離して別の視点から見たら、父は、自分の目の前の娘が自分と同じようにどもっていたら、心配になって、あわててしまって、父なりに娘のことを必死に考えて言ったかもしれない。「ゆっくりしゃべれ=どもるお前など認めない」ではなかったのに、それを自分の中で増幅させて、世間の人も目の前にいる大事な人も、たぶん、「自分がどもったら、否定される」という、自分で「べきものさし」をさしていたんだと思います。
ほとんどの人は、どもる人に対して、「どもるあなたはだめです」とか「人として劣ってます」と思っていないと思うんですが、それを、「目の前の人がそう思っているに違いない」と、自分が思うから、語れなくなる。そのことをマイケルの弟も、グループで知り合った親友も、いろんな人が表現を変えて、そのメッセージ伝えていた。そのことが、この映画の一つ大きいところだと思います。私も吃音について語れなかった頃は、自分がどもるなんて絶対に出せなかった。でも、仲間に出会って、「どもりって、何?」というところから考えて、そんなに悪いものじゃないというのが分かったとき、人に吃音について伝えてみたら、目の前の人は、私の吃音なんてたいした問題じゃないんですよね。自分の中で勝手に大きくしていただけでした。そこがたぶん、どもる人が悩む大きなポイントなんだろうなと思います。
伊藤 さきほどの話で、自分のしている行動が、母親に支配されてのものなのか、自分が主体的なのかに気づくということがとても難しいということがありましたが、僕たちも、似たような経験をしています。僕たちを支配してきたのは何かです。僕たちは、どもることそのことに悩んできたのではないのではないかとの疑問です。社会の中の「流暢に、効率よくしゃべることが普通」という、これを僕たちは社会通念という言い方をしますが、それが実は、僕たちを苦しめているんではないか、ということに気づくというのは、すごく難しいです。
どもることで、人に笑われたり、からかわれたりした経験はあったにせよ、「私はどもることで悩んでいます」というのとは、ちょっと違う視点です。どもる僕たちを生きにくくさせてきた張本人は別のところにある。「吃音に悩んでいるのは、どもらないで話すことが、普通だという社会通念にしばられて、そうしたいのに、それができないことの悩みだ」と、僕たちは考えるようになりました。この自分を悩ませてきた正体に気づくのはとても難しい。どもる当事者が、ただ単に話し合っているだけでは気づけない。吃音以外の人の悩み、苦しみに耳を傾け、他の、全く違うほかの領域から学び、その立場の経験とか、いろんなものが混ざり合って、実はこれは自分たちだけの思い込みかもしれないぞというふうに気づける。それには、よほどの機会と人との出会いなどが複雑にからむんでしょうね。 つづきます
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/02/02
人が集まるお寺として有名な應典院(おうてんいん)で、毎年幅広い団体が参加する、應典院コモンズフェスタ2017参加イベントとして、この企画がされました。
トークのゲストは、一ノ瀬かおるさんです。一ノ瀬さんは、漫画家として活躍する一方で、北海道浦河の「べてるの家の当事者研究」に強い共感と関心をもち、向谷地生良さん親子を大阪に迎えて事前の学習をするなど、準備を続けてこられました。そして、昨年10月、大阪大学で、530名が参加した「当事者研究全国交流集会大阪大会」を、運営委員長として開催されました。大阪の地に当事者研究を根づかせた人です。
壇上には、大阪吃音教室を運営する、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの会長、東野晃之さんと、コモンブフェスタの企画者のひとり、藤岡千恵さん。藤岡さんは、一ノ瀬さんが運営委員長として開催した全国交流会で「吃音の当事者研究」の発表をしました。僕が司会進行をしながら、一ノ瀬さん、東野さん、藤岡さんの4人でトークをしました。
まず、「The Way We Talk」(私たちの話し方)上映の後、一ノ瀬さんに興味をもたれたことを三つほど出していただき、それをキーワードに話し合うことにしました。その中の少しを紹介します。しかし、発言者に校閲を受けていませんので、多少のニュアンスに違いはあるかと思います。正確なものは後日、本人の校閲を受けて紹介する予定です。
一ノ瀬 ターナーさんと伊藤さんが語られることを順序で考えると、ターナーさんは、今、吃音についていろいろと気づいて、語っていこうとされたり、治療も受けられたりしてますよね。まあ、受けたり受けなかったりですが。でも、伊藤さんは、ずいぶん前から、もういいじゃないかというスタンス。それは間違ってはいないですか。(はい)
それを語るためにあえて言わせていただくのですが、たとえば、藤岡さんは、当事者研究の全国交流会の「吃音の当事者研究」で話されていたことによれば、子どもの頃から、どもらないように工夫して、吃音をコントロールして、シーアンの言う「カバ」を隠して、しゃべれる自分を作り上げましたよね。作り上げることも可能だとしたら、その方がいいというコメントもあると思うのですが。
伊藤 それはあります。アメリカの言語病理学やそれにつながる人たちは、周りからどもりだと分からなくなれば、それはそれで万々歳で、それができたらあなたのどもりの問題はなくなったと同じだから、それでいいじゃないかと言います。「かなりゆっくりとした話し方で、多少の不自然さはあったとして、どもるよりはいいでしょう。あなたは、どちらを選択しますか?」と迫ります。選択と言いながら、治療者としては「不自然なゆっくりの話し方でも、どもらない方がいい」との価値観をある意味、どもる人に押しつけていると言えなくもないんです。だから、アメリカでは、どもらないようにコントロールする方法を身につけさせようとするんです。
一ノ瀬 それは、理にはかなっていると思うんです。社会からの要求がきていて、それに合わせようとして、それを成長と位置づけ、みんなで努力して、さあ社会に適応できましたねという流れは、一般的に、私が子どもの頃からの基本的な社会からのスタンスなんですよね、社会の要求としては。それをあえて、そうではないと、伊藤さんたちは言われる。自分たちのどもりと向き合っていこうという、それは、どういうものなのでしょうか。
伊藤 専門家集団、治す立場にある人は、「ゆっくり、そっと、やわらかく」言う訓練で、どもらないようになったら、それで何の文句があるのかと言うんです。ところが、当事者、本人にしてみれば、そういうふうに、「どもらない方がいい」の価値観に縛られて、どもらないように気をつけて、話をしている自分に疑問を感じはじめます。これが本当に自分なのか、世間に合わせて、世間に合っていることばを、外国語でも学ぶように学んでしまった、この僕のことばは、自分のことばじゃないと思うときがあるんです。
小学生の子どももそうで、ロボットのようなしゃべり方は、僕はしたくないと言ったりします。ある子は、小学生で気づいたり、ターナーは25、6歳で気づいたり、僕は21歳で気づいたり、スキャットマン・ジョンは、52歳で気づいたり、この年齢の幅があるのは一体何なんだろうと思って、すごい不思議なんです。
一ノ瀬 私は、当事者研究の取り組みを、NPOを立ち上げて、みんなでやったり、もちろん私も一緒にやっています。その中で出てくるのが、「定型さん」とか「社会的な与党」とか、「べきものさし」とか表現しますが、そういうものさしをみんな持っているということです。たとえば、この場面では、どもらずにさらっと言うべきだとか、自分の中にそういうものさしをストックしている。そのものさしが多ければ多いほど、それは、おりのようになっていく。おりの中で、「べきものさし」に囲まれている。でも、べきものさしが言っていることって、社会の与党なんです。大多数で正しいように迫ってきます。「そうするべきだよね」と言ったら、みんな、「う、うん」(不本意ながらも、みんな賛成するみたいな)と言う。べきものさしを抱えていくことの不都合は、それがおりのように頑丈になっていくことと、そのものさしで、今度は他人をはかってしまうことです。
私はこういう「何々すべき」で生きているのに、なぜあなたはこの「べき」を使わないのかなということになり、心のすさんだサイクルが起こる。それは吃音だけじゃなくて、いろんな所で発生している。社会の与党からの要求と、自分が野党だから、人数が少ないから、与党に屈するべきかとか。これもべきべき、です。こういうことがいろんなところで起こっている。だから、あえて、お伺いしたかったのです。
ターナーさんは、自分で語りを始められましたね。しゃべろうとされていた。これは、相当難しいんじゃないかと思うんです。私は、この映画のタイトル「私たちの話し方」と聞いて、うっかりの吃音の話し方ってこうだよね、定型の話し方ってこうだよねという、そのことを言っているかと思ったら、違ってました。
自分の中に何があって、自分はどういう苦労を抱えているか、まず自分が明らかにする。あきらめるんですよね。明らかにして、それをそのまま受け取って、さらにそれから語っていこうとする。この話すところに行くまでに、何段階もあると思うんですが、これって、ただ事じゃないと思います。
ちょうど、数日前、ここ應典院で、「母娘問題」を取り上げ、それを語ってみようというイベントをしたんです。母娘問題ってご存じですか。
娘が母の要求してくる人生をそのまま生きようとしている。自分の人生の優先順位が、母が求めるものになってしまっている。そんな優先順位をもって生きてしまう娘たちの苦労なんだけど、それに気づくまでにすごい時間がかかります。私は、母の要求で、今、服を選んでいる、この進路を選んでいるということに、娘本人が気づいていないんです。もう一体化してしまっているから。でも、「母娘問題」を語るとき、そこを分離して、さらに自分の中を見て、どうなっているか観察していくんです。えらい作業なんです。このあたりの苦労を、どういうことをされてきたのか、どういうしんどさがあったか、聞かせて下さい。
東野 さっきの話に、「べき思考」というのがあったでしょう。人前で、どもって話すべきではないという、そんなことは、僕たちにいっぱいあるわけです。もちろん、それに囲まれていると、話せなくなってくる。それから解放されないとまず語ることができない。今回の配布資料の中にありますが、ジャーナリストの斎藤道雄さんが、「すべきだ、治すべきだ」というのは、自分のことばではなく、他人のことばなのだと言っているんです。さきほど、与党という話があったけれど、まさしくそういうことで、他人が言っていることです。大多数の人はおそらくそんなふうに考えるだろうという考え方です。一方、僕らが治すことにこだわらなくて、自分はこのままでいいんじゃないか、そんなにがんばらなくていいんじゃないかというのは、他人のことばではなく、私のことばなんですよ。その違いについて斎藤さんは書いている。
とてもよく分かるなあと思う。「べき」に囲まれているとき、大きな劣等感をもっているときは、自信がないので、人と吃音についての対話ができない。でも、セルフヘルプクループに来て、どもりながら話をしたことを真剣にみんなに聞いてもらい、中には、「お前、なかなか良いことを言うな」とほめてもらったりする。そんなことがあると、自信ができてきて、少し吃音について語れるようになるという経験をしたことがある。その積み重ねかなという気がする。
藤岡 私も、やっぱり自分のどもりを絶対に明るみに出してはいけないという時代が長くて、その頃はもう、「べきものさし」だらけで、ちょっとでも、どもってしまったら、終わりだという感じだった。この映画、すごく奥が深いなと思うのは、自分との対話というか、「どもるな」というのは、結局自分が自分に言っていることばなんですね。私は、父が「ゆっくりいいなさい」と言い直しをさせたことをずっと、父が、私の吃音を否定して、そういうメッセージを送ったと思っていました。だけど、少し離して別の視点から見たら、父は、自分の目の前の娘が自分と同じようにどもっていたら、心配になって、あわててしまって、父なりに娘のことを必死に考えて言ったかもしれない。「ゆっくりしゃべれ=どもるお前など認めない」ではなかったのに、それを自分の中で増幅させて、世間の人も目の前にいる大事な人も、たぶん、「自分がどもったら、否定される」という、自分で「べきものさし」をさしていたんだと思います。
ほとんどの人は、どもる人に対して、「どもるあなたはだめです」とか「人として劣ってます」と思っていないと思うんですが、それを、「目の前の人がそう思っているに違いない」と、自分が思うから、語れなくなる。そのことをマイケルの弟も、グループで知り合った親友も、いろんな人が表現を変えて、そのメッセージ伝えていた。そのことが、この映画の一つ大きいところだと思います。私も吃音について語れなかった頃は、自分がどもるなんて絶対に出せなかった。でも、仲間に出会って、「どもりって、何?」というところから考えて、そんなに悪いものじゃないというのが分かったとき、人に吃音について伝えてみたら、目の前の人は、私の吃音なんてたいした問題じゃないんですよね。自分の中で勝手に大きくしていただけでした。そこがたぶん、どもる人が悩む大きなポイントなんだろうなと思います。
伊藤 さきほどの話で、自分のしている行動が、母親に支配されてのものなのか、自分が主体的なのかに気づくということがとても難しいということがありましたが、僕たちも、似たような経験をしています。僕たちを支配してきたのは何かです。僕たちは、どもることそのことに悩んできたのではないのではないかとの疑問です。社会の中の「流暢に、効率よくしゃべることが普通」という、これを僕たちは社会通念という言い方をしますが、それが実は、僕たちを苦しめているんではないか、ということに気づくというのは、すごく難しいです。
どもることで、人に笑われたり、からかわれたりした経験はあったにせよ、「私はどもることで悩んでいます」というのとは、ちょっと違う視点です。どもる僕たちを生きにくくさせてきた張本人は別のところにある。「吃音に悩んでいるのは、どもらないで話すことが、普通だという社会通念にしばられて、そうしたいのに、それができないことの悩みだ」と、僕たちは考えるようになりました。この自分を悩ませてきた正体に気づくのはとても難しい。どもる当事者が、ただ単に話し合っているだけでは気づけない。吃音以外の人の悩み、苦しみに耳を傾け、他の、全く違うほかの領域から学び、その立場の経験とか、いろんなものが混ざり合って、実はこれは自分たちだけの思い込みかもしれないぞというふうに気づける。それには、よほどの機会と人との出会いなどが複雑にからむんでしょうね。 つづきます
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017/02/02