高倉健に会ってきた

健さん1

健さん2

健さん3


 「高倉健に惚れ、かつ、どもりである大学教官と紹介しておこう」
 著書『吃音者宣言』の裏表紙に神山五郎先生が紹介を書いて下さいました。
 ヤクザ映画は嫌いだが、「幸せの黄色いハンカチ」からのファンだという人は少なくないのですが、僕は、高倉健さんのデビューのときからのファンでした。

 僕は、この人はと思ったら、ずうっと一貫して、観るようになります。東映のニューフェイスとして登場し、美空ひばりの添え物として出ていた頃から、「森と湖のまつり」「ジャコ萬と鉄」から開花し、「網走番外地」へ、その後、「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」へと見事に変身していった晩年まで、健さんの映画はほとんど観ています。
 僕は一度好きになるとその人の生涯を追いかけるしつこさがあります。バート・ランカスターは「深紅の盗賊」「空中ブランコ」から「OK牧場の決闘」などの西部劇。そしてアカデミー賞主演男優賞作品、遺作までみています。クリント・イーストウッドも、テレビ映画「ローハイド」の若いカウボーイ役から、マカロニ・ウェスタンから、そしてアメリカを代表する俳優・監督に成長するのを追い続けてきました。一人の人間の成熟を追っていくのは楽しいものです。
 
 屈強な高倉健さんと死とが結びつかず、2014年11月10日、健さんの訃報に接したときも、「健さんも死ぬんだ…」と、とても不思議な思いをしました。その後も、追悼番組だけではなく、常時、健さんの映画はたくさん上映されていました。懐かしい映画もたくさんあり、映像の中で、僕はいつも健さんと出会っていました。
 
 今回、年末年始を東京で過ごすことにしたひとつの目的は、高倉健の追悼特別展に行くことでした。この追悼特別展のことを知ったのは、1年以上も前の毎日新聞記事でした。来年、つまり、2016年11月から、東京丸の内のステーションギャラリーで行うと書いてありました。1年先の宣伝記事でした。その新聞記事を大事に切り抜いておいて、ようやく、開催の時期になったのです。

 この追悼展、日時指定の完全予約制でした。昨年最後の仕事である越谷での講演を終えた翌日、12月27日(火)午前10時からのチケットを手に入れました。会場は、東京駅構内のステーションギャラリー。入り口に健さんの横顔の大きなポスターが飾られていました。
 チラシから、今回の追悼展の内容を紹介します。

映画俳優、高倉健の全仕事
 任侠映画で一時代を築き、数多くの名作や話題作に出演し、晩年は最も出演が待ち望まれる俳優として、生涯で205本の映画に出演した高倉健。多くのファン、スタッフや役者仲間からも慕われたこの名優が世を去ったのは、2014年11月10日のことでした。
 本展は、3回忌を迎えるのを期に、高倉健の映画俳優としての仕事を回顧し、あらためてその業績を顕彰しようとするものです。横尾忠則、森山大道による、高倉健をモチーフとした作品で幕を開ける本展の最大の見どころは、出演作205本のすべてから抜粋した、高倉健出演場面の映像の紹介です。
 残されたフィルムには経年劣化により現在見ることの困難な作品もありましたが、フィルムをデジタル修復するなどして、その一部をご覧いただくことが可能になりました。1本1本の抜粋時間は限られていますが、時代ごとの高倉健の魅力を存分に味わい、映画俳優としての全仕事を概観する絶好の機会となります。
 あわせて、高倉が所蔵していた台本や小道具、スチール写真、ポスターやプレスシートといった宣伝物など、貴重な資料類を一堂に展示し、時代とともに歩んだ稀代の映画俳優の足跡をたどります。展示された膨大な映像や資料の中を彷徨ううちに、その中から高倉健という俳優の存在が立ち現れて来るのを感じていただけることでしょう。


 東京正生学院で吃音を治すために必死に訓練し治らなかった、治らなかったけれど、同じようにどもる仲間と出会えた喜びの中から、言友会を創立したのが、1965年。その同じ年に「飢餓海峡」「網走番外地」が公開されました。新宿東映が開場と同時に満席になり、急遽近くの映画館を借りて上映という、映画全体が斜陽に入っていった時代に、ここだけはすさまじい熱気でした。
 言友会の活動をしていたあの頃、銀幕の中には高倉健さんがいました。理不尽な仕打ちに我慢を重ね、とうとう我慢ができなくなって、切り込んでいくその姿が、どもりの悩み、苦しみの中から立ち上がっていく僕たちの姿と重なり合いました。考えられないくらいの人気でした。映画の終盤、クライマックスになると、「健さん! 待ってました!」と声がかかり、「やっちまえ!」と、映画の中の健さんと共に闘って一体感を味わい、そして、終わると、観客は皆、肩で風を切って歩いて出てくるというふうでした。

 年間12本も撮影するという時代もあったけれど、だんだんといい作品をじっくりと取り組んで撮影し、後半は23年間で8作品しか出演しないように変化していっています。一緒に映画づくりに取り組んだ人々から、こんなに尊敬され、慕われている俳優も珍しいです。ひとつのことに、ひたむきに一所懸命取り組むことの大切さを改めて思いました。
 1955年の作品から2012年の作品まで、一つ一つは短いけれど、一人の俳優のほとんどの作品を映像で見ることができた、高倉健ファンとしては見逃せない追悼展でした。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2017