石川少年自然の家を後にして、スタッフの方の車に乗せてもらい、那覇市内に戻りました。飛行機の便の関係で一足先に帰った井上さんを除いて、僕たちの仲間と平良さん、平良さんの子ども2人と一緒に夕食に行きました。何を食べるかは、もうすでに自然の家を出発したときから、決まっています。「ステーキ!!」と叫んでいたのは誰でしょう。

 自然の家の粗食が一転して、豪華なステーキをたっぷりいただきました。この日のうちに帰らないといけない渡邉さんと有馬さんを見送って、平良さんたちと別れ、僕たち4人は、那覇の国際通りをぶらぶら歩きました。観光客、修学旅行生たちがにぎやかに町を歩いています。キャンプの余韻に浸りながら、沖縄のお酒を飲んでいた坂本さんと溝上さんでした。僕は、もちろんウーロン茶です。

 翌日は、溝上さんの運転でレンタカーを借り、飛行機出発ぎりぎりまで、戦跡めぐりをしました。僕が最初に沖縄に訪れたときは、個人タクシーを借り切り、タクシーの運転手さんが事前にしっかり勉強してきて、解説付きで朝から夜7時ごろまで時間の限り回ってもらったのですが、回るところが多くて、一つ一つにあまり時間がとれませんでした。今回は、3カ所しか回らなかったのですが、その分、一カ所ずつ心ゆくまで時間をかけることができました。

 最初は、沖縄戦跡国定公園に指定されている沖縄県平和祈念資料館。摩文仁の丘を回り、亡くなられた方の名前を刻んだたくさんの碑に圧倒されました。今日も暑い日で、海も空もは真っ青です。がけから飛び込んだ人の血で真っ赤になっていたというその海は、悲しいほどきれいで穏やかでした。ゆっくりじっくり館内を見て回りました。無念の思いで死んでいった人たちを代弁する体験者の証言の数々は、圧倒的な重さで迫ってきます。歴史の真実から目をそむけることはできないと思いました。
 展示のむすびのことばを紹介します。

 
沖縄戦の実相にふれるたびに
 戦争というものは
 これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
 と思うのです

 この なまなましい体験の前では
 いかなる人でも
 戦争を肯定し美化することは できないはずです

 戦争をおこすのは たしかに 人間です
 しかし それ以上に
 戦争を許さない努力のできるのも
 私たち 人間 ではないでしょうか

 戦後このかた 私たちは
 あらゆる戦争を憎み
 平和な島を建設せねば と思いつづけてきました

 これが
 あまりにも大きすぎた代償を払って得た
 ゆずることのできない
 私たちの信条なのです

 その後は、旧海軍司令部壕に行きました。1944年日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕で、当時は450メートルあったと言われています。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、アメリカ軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人余の兵士が収容されていたそうです。1944年といえば、僕の生まれた年です。

 最後に、ひめゆり平和祈念資料館に行きました。修学旅行生がたくさんいて、外からは観光地化しているようにも見えましたが、中に入ると、屈託のない笑顔の写真がたくさん飾られており、それが逆に戦争の悲惨さを浮き彫りにしているようでした。生き残った人の証言は、歴史の真実を語っています。ここでもまた、平和への思いを新たにしました。

 溝上さんのおかげで、ゆっくりと回ることができました。この事実を前にして、この国の沖縄に対する国の対応や、平和を今を思うと絶望的になりますが、それでも今生きていることを噛みしめ、僕にできることをこつこつ続けていきたいと思いました。

 大阪に戻り、「スタタリング・ナウ」の編集・発送を終え、先週末は島根県松江市で、「幼児吃音」をテーマに講演を行い、大阪に戻り、やっと沖縄キャンプのブログの最終にたどり着きました。気温は、10度。東京は雪だとか。ほんの少し前の沖縄は、30度もあったのに。夏から一気に冬になりました。今年も残り1ヶ月。やり残している仕事の山を少しずつ崩していこうと思っています。

沖縄キャンプの写真をまとめて紹介します。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/11/28