落語家・桂文福とのことを前回かきましたが、講演記録の「スタタリングナウ」は2号にわたりましたので、巻頭言は2号分書いたことになります。そのひとつです。 
 
 瘢痕     

      日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 「文福さんは、30年もプロとして喋る仕事をされてきて、話す訓練をいやと言うほどされてきたと思いますが、それでも吃音は治りませんか?」

 桂文福さんに不躾な質問をしてみた。「治りまへんな」文福さんの答えは明快だった。
 昔の人々は、自ら損害を被りながらも、自然をねじ伏せるのではなく、折り合いをつけ、つきあう知恵を育んできた。ところが現代人は、自然を自分の都合の良いように克服しようと、自然を破壊してきた。様々な環境破壊が、人間を、暮らしをむしばみ始めてやっと、人間はその愚かさに気づき始めた。では、人間のことばやこころについてはどうだろう。 クローン人間が現実のものになりつつあり、宇宙旅行さえも実現しそうな現代。神経生理学的な研究や、高度な情報技術を駆使すれば、吃音は治るのではないか。多くの人の自然な思いかもしれない。

 まして、吃音は全く喋れない言語障害ではなく、時には流暢に喋れる。言わば、限りなくいわゆる普通に近い。あと一歩のことだから、なんとかなるのではないか、努力すれば治せるのではないかと考えてしまうのだろう。吃音に悩んだ私たちは、治りたいと思い詰め、治す努力を続けた。そしてますます悩みを深め、吃音を隠し、話すことを避けた。この日常生活に及ぼす影響に気づき、30年近くも前に、『吃音を治す努力の否定』を提起した。が、いまだに、インターネット上でも「吃音は治る、治せるのに、治ることを否定するとは何事か」と筋違いな批判をされている。
 
 自らの生活を一所懸命生き、結果として吃音が治った状態になることはあるだろうが、治そうとばかり考え、そのための努力をした人が治ったというのは私は知らない。治るものなら治るにこしたことはないが、現実に治す方法はない。
 吃音に悩んできた人にとって吃音が治るとは、人が空気を吸うように、自然に話せることだと言っていい。周りの人が吃音と気づかない、つまり98%は話せても、ある特定の音が出にくい2%で悩む人は、この2%が受け入れられずに悩んでいる。
 ことばの発達途上の吃音は、40%ほどは自然消失する。しかし、時間をかけて自分の中に入ってきた吃音が、小学生まで持ち越すと、これはもうその人の一部になり切っている。そのからだの一部になっている吃音が、跡形もなく消えることは恐らくないだろう。

 アメリカの言語病理学者フレデリック・マレーさんは、それを火山に例えた。噴火が収まったかに見えても、いつ噴火しても不思議はないという。マレーさんも、今は流暢に話して死火山のようだが、大噴火したらお手上げだと笑っておられた。         (『スタタリングナウ』39号)

 私は、かなりどもっていた21歳の頃と比べ、講義や講演など大勢の前ではほとんどどもらなくなった。
 しかし、ここ2年私は変わった。普段だけでなく、講演や大学などの授業でもかなりどもるようになった。昨年の秋、島根県で『自分を好きになる子に育てるために』の講演の時、《初恋の人》の文章を朗読した。このエッセイには、「自分と他者を遠ざけてきた吃音・・・」など、たくさんの「他者」が出てくる。「たたた・」となればいいが、ぐっと詰まって「た」が出ない。講演の中程から「他者」を瞬間に「人」に言い換えた。短い文章だが、普段の倍の時間がかかったろう。

 「嫌なことはしない。嫌な人とはつきあわない」を生活の信条にできる勝手気ままな生活を送っているので、ストレスがあるわけでも、将来への不安があるわけでもない。人前で話すことが多い私がなぜこのように最近どもるようになったのか、全く見当がつかない。吃音を治したいとはこれっぽっちも思っていないから、これはこれで自分らしくて悪くはないが、吃音の不思議さを思う。
 父もそうだった。吃音を治したいと謡曲を始め、その師範となり謡曲を生業とした。腹式呼吸の達人だった。お弟子さんに教えるときや、人前で話す時は、ほとんどどもらないが、家族の前ではよくどもった。吃音が治る、治せるという人は、文福さんや父や私にどんな訓練をしてくれるのか。私たちがどんな努力をすればいいのか。教えて欲しい。教えてもらっても文福さんも父も私もしないだろうけれども。

 瘢痕(はんこん・皮膚の腫れ物や傷などが治癒したあとに残るあと−広辞苑)は、消えることはない。
 
        「スタタリングナウ」2001.2.17  N0.78

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月22日