老朽した家屋を事務所に
発会式が無事に終わって、会員も80名近くになり、いろいろな活動が可能になってきた。新聞発行、会員の連絡と会の仕事は急に増え、いつまでも丹野さんの家をずうずうしく使うわけにはいかなかった。聞きとりにくい電話、それもひんぱんにかかってきては丹野さん一家がノイローゼになるのも無理なかった。
しかし役員以外の会員はどこまでもずうずうしく、総会で提案された「事務所設置のための“千円カンパ”に猛烈に反対をし、そのまま丹野さんの家を使っていこうと言うのだった。やっとの思いで、わずかの差で可決されたものの前途は暗かった。
そんなとき私達の新聞での呼びかけに、すぐ応じてくれたのは、かつてどもりで苦しんだ板谷松栄さんで、その日すぐ私達は喜びいさんで坂谷さんの貸そうという一軒家に出かけた。港区白金とくれば迎賓館が頭にうかぶ東京の一等地、この家がその家ですと言われてもしばらく信じられなかった。東京の文化財保存の実績を誇るかのように、今どきめずらしい汲み取り式の便所までついていた。私達が靴をぬいで上ろうとすると、そのままでいい、とおっしゃる。恐る恐る足を踏み入れると、“バリ!”と床板が破れる。私はもうがまんならなかった。とても人が住めるとは思えなかったのだ。案の定10年近く人が住んでいなかったらしい。
若い私達の思いは通じず、板谷さんと丹野さんの話はすすみ、1ヵ月5,000円で話は決まった。総会でもめながらも集めたカンパ金は全て家屋修復に使われ、会員である大工さんを中心に10数名の会員が作業にあたった。ほこりにまみれているうちに、私達はこのボロ家に愛情をいだき始めていた。電話が入りタタミを入れ替えると泊まり込む人も増え、まさに仲間のたまり場となっていった。
映画「若者たち」のこと
事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。
吃音者、街に出る
私たちのすばらしいオンボロ事務所も、4年間の会の活動の重みに耐えられなくなるほどに老朽化してきた。これまで活動が続けられたのはこの事務所のおかげと思えば、壊れてしまうのをそのまま見過ごすわけにはいかなかった。会費月200円の言友会に、事務所を修理するまとまったお金があるわけではなかったが、私は昭和45年の活動方針に事務所改築を入れた。方針案説明の時その費用の捻出方法を質問された私は、何とも答えられなかった。
故吉田昌平氏と私は、京都と東京に離れてはいたものの、会活動で困ったことが起きた時や新しいことを考えついた時、私が京都へ出かけたり、彼が東京へ来るなどして常に密接に連絡をとりあっていた。新宿のサウナが彼と私の会議室だった。ゆったりした休憩室の中に2人でいると、夢はいつも果てしなく広がっていくのだった。私以上に政治の力を信じ、政治活動にもエネルギーを集中してきた彼は、私に吃音問題の解決のための請願運動の必要性を説いた。賛成をした私は、それでは全国的な規模でカンパ運動にもとりくもうと逆に提案をした。若かった私は恥ずかしいことに、その時カンパ金の方により強く心が動かされたのだった。
さっそく東京、京都、その他の言友会で話しあいがもたれ、署名、請願運動を全国の言友会が展開することになった。署名用紙やビラが印刷され、狭い事務所がより狭く感じられるほど積み上げられた。
「これだけのビラを配るのに1年はかかるぞ」
とそそっかしい印刷担当者を責めたが、あとのまつりであった。
事務所で泊ることの多かった私は、いつも山と積まれたビラを眺めながら眠りについた。このビラを早く片付けなければならない。私たちは請願運動にエネルギーを集中していった。
立看板が用意され、ハンドマイクがあるメーカーから提供された。それらを運ぶトラックも用意された。署名カンパ運動が始まったのは、冷たい風の吹きつける2月のことであった。
「ご通行中の皆さん、私たちはどもりです。自分のどもりを克服しようと集まっている言友会の者です。言語障害児対策は日本ではたいへん遅れています。全国にもっともっと多くの言語治療教室の設置と専門の治療機関を作らねばなりません」
時にはどもり、時には大雄弁家になったつもりでマイクを手にした。新しく入った会員も古い会員も街頭に立った。1週間に3日、今日は有楽町、明日は目黒と東京中で署名カンパ運動が続けられた。昭和45年2月から12月の11ヵ月の間に、署名約5千、カンパ金43万円、言友会の会員の個人カンパを含めて60数万円が私たちの手元に集まった。
事務所新築に動く
その頃、言友会には、責任ある活動をしていくための専従がおかれた。その費用は全てカンパに頼らなければならなかった。60数名が毎月会費の他に500〜1,000円のカンパを継続してくれることになった。ともすれば全ての仕事を引きうけがちになり、昼間は一人きりで事務所にいる専従者を孤立させないためにも私たちは力を入れて活動を続けなければならなかった。その熱意が実ったのか、その年の言友会の夏の合宿には103名という記録的な参加者を得た。吃音者のエネルギーが千葉の海に爆発したのだった。
しかし、事務所改築の交渉は順調には進まなかった。「新しく建てた建物は板谷氏の登記とするかわり、半永久的に言友会が使用し、家賃の月5,000円は20年間据え置く」という条件に、運営委員会では議論が百出した。言友会が全額費用を負担し、更に家賃を払うのはおかしいという意見が強く出され、たびたび板谷氏と交渉を重ねた結果、時価250万円する借地権を70万円で買い取ることに成功した。寒い夜、凍える手でマイクを持って訴え、寄せられた暖かいカンパ金60数万円は全て借地権の買い取りで消えた。常識では考えられない安い買い物ではあったが、お金のない言友会にとっては大きな金額であった。事務所新築は新しい局面を迎えた。
全障研とともに事務所を
障害者運動に積極的に関わる中で、私たちと全国障害者問題研究会(全障研)とのつきあいが始まっていた。
そんなある日、私は、新宿にある全障研の事務所に遊びに出かけた。6畳一間のアパートを事務所として使用していた全障研も、また事務所を求めていることをそのとき知った。世間話の中から、言友会が事務所を作ろうとしているとの話がでた。そして共同出資で事務所を建てようというところまで話が進んだ。建築費用は折半し、所有は言友会で、5年間無料で全障研が1室を事務所として使い、5年たった時点で全障研が出した金の半分を返却するという条件は、私たち言友会にとっては願ってもないことであった。しかし、借地権買い取りその他ですでに80万円近いお金を使いきり、私たちにはお金が全くなくなってしまっていた。私たちはまた金策に苦労しなければならなくなった。
その年5月の第4回言友会全国大会(名古屋)では、事務所新築を東京言友会のものと考えず、全言連の事務所として位置づけ、全国でカンパ運動に取りくむという大会決定がなされた。
全国の仲間に励まされ、私たちはまた活動を開始した。私たちは再び街頭へ出るとともに、全会員にさらにカンパを要請した。
カンパとともに、自分たちの力で少しでもお金を稼ごうと建築を請け負ってくれた建築会社でのアルバイトが始まった。毎週日曜日私たちは朝8時に集合した。建築資材の整備が私たちの仕事であった。炎天下まっ黒に日焼けした私たちは上半身裸で作業に励んだ。交通費は自己負担、さらにそこで得た報酬は全て事務所建設の費用になるという条件の中でも多くの人が参加をしてくれた。働いている人にとっては日曜日は休息日、それを返上しての参加だった。近くを通りかかったからと西瓜の差し入れをしてくれた会員、また建設会社の人の善意に励まされながら、私たちは汗にまみれた。
「風呂代ぐらいは出そう」
と言うと、
「風呂代、出してくれるのですか?」
と若い会員がうれしそうに言った。その頃の風呂代はまだ50円だったであろうか。みんなと汗を流しあい、風呂につかりながら、一日の仕事ぶりを話しあった。
「今日の分はトイレのタイル分ぐらいかな」
私たちは、新しく建つであろう建物に思いをはせた。このバイトは、事務所が新築されてからも続いた。言友会のエネルギーが一気に爆発した頃の活動は楽しかった。事務所には常に5、6名が泊まりこみ、記念祭に、文化祭に、合宿にと言友会三大行事に取りくんだ。事務所新築が決まり建設会社との契約をかわした私たちは、次の目標、5周年記念大会へとエネルギーを集中させた。映画『若者たち』のスタッフを囲んでの討論会、みんなで歌う歌「言友会の歌」の発表、夢のような企画が会員のしゃにむな活動によって現実のものとなっていった。
言友会の歌は、「若者たち」「昭和ブルース」の作曲家、佐藤勝氏が心よく作曲を引きうけてくださった。言友会の歌がテープによって届けられたとき、事務所で仕事をすませたあと、みんなで何度も何度も聞いた。さっそく生演奏のあるビアホールに楽符を持っていき、演奏してもらった。お客さんはどもりの人たちの歌とも知らず、私たちの歌に手拍子を打った。愉快だった。
当日は、いろんなサークル、障害者団体の人びとがかけつけてくれ、400名の人が言友会の創立5周年を祝ってくれた。その数日後に旧事務所の取り壊しがあった。
いろいろな活動があった。けんかをしたり飲んだりした。失恋に泣きむせんだ人もいた。ボロ屋だけど本当にみんなが親しんだ事務所が今取り壊される。私たちの思いを知る由もない建設会社の人たちが無造作に取り壊していく。
「もっと大事に扱ってください。」
10名ほどの会員の見守る中、事務所は音をたてて崩れていった。涙が一筋、ほおを伝った。ありがとう。長い間ありがとう。私たちは心の中で叫んでいた。
『吃音者宣言 言友会活動10年』 (たいまつ社) 1976年より
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月16日
発会式が無事に終わって、会員も80名近くになり、いろいろな活動が可能になってきた。新聞発行、会員の連絡と会の仕事は急に増え、いつまでも丹野さんの家をずうずうしく使うわけにはいかなかった。聞きとりにくい電話、それもひんぱんにかかってきては丹野さん一家がノイローゼになるのも無理なかった。
しかし役員以外の会員はどこまでもずうずうしく、総会で提案された「事務所設置のための“千円カンパ”に猛烈に反対をし、そのまま丹野さんの家を使っていこうと言うのだった。やっとの思いで、わずかの差で可決されたものの前途は暗かった。
そんなとき私達の新聞での呼びかけに、すぐ応じてくれたのは、かつてどもりで苦しんだ板谷松栄さんで、その日すぐ私達は喜びいさんで坂谷さんの貸そうという一軒家に出かけた。港区白金とくれば迎賓館が頭にうかぶ東京の一等地、この家がその家ですと言われてもしばらく信じられなかった。東京の文化財保存の実績を誇るかのように、今どきめずらしい汲み取り式の便所までついていた。私達が靴をぬいで上ろうとすると、そのままでいい、とおっしゃる。恐る恐る足を踏み入れると、“バリ!”と床板が破れる。私はもうがまんならなかった。とても人が住めるとは思えなかったのだ。案の定10年近く人が住んでいなかったらしい。
若い私達の思いは通じず、板谷さんと丹野さんの話はすすみ、1ヵ月5,000円で話は決まった。総会でもめながらも集めたカンパ金は全て家屋修復に使われ、会員である大工さんを中心に10数名の会員が作業にあたった。ほこりにまみれているうちに、私達はこのボロ家に愛情をいだき始めていた。電話が入りタタミを入れ替えると泊まり込む人も増え、まさに仲間のたまり場となっていった。
映画「若者たち」のこと
事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。
吃音者、街に出る
私たちのすばらしいオンボロ事務所も、4年間の会の活動の重みに耐えられなくなるほどに老朽化してきた。これまで活動が続けられたのはこの事務所のおかげと思えば、壊れてしまうのをそのまま見過ごすわけにはいかなかった。会費月200円の言友会に、事務所を修理するまとまったお金があるわけではなかったが、私は昭和45年の活動方針に事務所改築を入れた。方針案説明の時その費用の捻出方法を質問された私は、何とも答えられなかった。
故吉田昌平氏と私は、京都と東京に離れてはいたものの、会活動で困ったことが起きた時や新しいことを考えついた時、私が京都へ出かけたり、彼が東京へ来るなどして常に密接に連絡をとりあっていた。新宿のサウナが彼と私の会議室だった。ゆったりした休憩室の中に2人でいると、夢はいつも果てしなく広がっていくのだった。私以上に政治の力を信じ、政治活動にもエネルギーを集中してきた彼は、私に吃音問題の解決のための請願運動の必要性を説いた。賛成をした私は、それでは全国的な規模でカンパ運動にもとりくもうと逆に提案をした。若かった私は恥ずかしいことに、その時カンパ金の方により強く心が動かされたのだった。
さっそく東京、京都、その他の言友会で話しあいがもたれ、署名、請願運動を全国の言友会が展開することになった。署名用紙やビラが印刷され、狭い事務所がより狭く感じられるほど積み上げられた。
「これだけのビラを配るのに1年はかかるぞ」
とそそっかしい印刷担当者を責めたが、あとのまつりであった。
事務所で泊ることの多かった私は、いつも山と積まれたビラを眺めながら眠りについた。このビラを早く片付けなければならない。私たちは請願運動にエネルギーを集中していった。
立看板が用意され、ハンドマイクがあるメーカーから提供された。それらを運ぶトラックも用意された。署名カンパ運動が始まったのは、冷たい風の吹きつける2月のことであった。
「ご通行中の皆さん、私たちはどもりです。自分のどもりを克服しようと集まっている言友会の者です。言語障害児対策は日本ではたいへん遅れています。全国にもっともっと多くの言語治療教室の設置と専門の治療機関を作らねばなりません」
時にはどもり、時には大雄弁家になったつもりでマイクを手にした。新しく入った会員も古い会員も街頭に立った。1週間に3日、今日は有楽町、明日は目黒と東京中で署名カンパ運動が続けられた。昭和45年2月から12月の11ヵ月の間に、署名約5千、カンパ金43万円、言友会の会員の個人カンパを含めて60数万円が私たちの手元に集まった。
事務所新築に動く
その頃、言友会には、責任ある活動をしていくための専従がおかれた。その費用は全てカンパに頼らなければならなかった。60数名が毎月会費の他に500〜1,000円のカンパを継続してくれることになった。ともすれば全ての仕事を引きうけがちになり、昼間は一人きりで事務所にいる専従者を孤立させないためにも私たちは力を入れて活動を続けなければならなかった。その熱意が実ったのか、その年の言友会の夏の合宿には103名という記録的な参加者を得た。吃音者のエネルギーが千葉の海に爆発したのだった。
しかし、事務所改築の交渉は順調には進まなかった。「新しく建てた建物は板谷氏の登記とするかわり、半永久的に言友会が使用し、家賃の月5,000円は20年間据え置く」という条件に、運営委員会では議論が百出した。言友会が全額費用を負担し、更に家賃を払うのはおかしいという意見が強く出され、たびたび板谷氏と交渉を重ねた結果、時価250万円する借地権を70万円で買い取ることに成功した。寒い夜、凍える手でマイクを持って訴え、寄せられた暖かいカンパ金60数万円は全て借地権の買い取りで消えた。常識では考えられない安い買い物ではあったが、お金のない言友会にとっては大きな金額であった。事務所新築は新しい局面を迎えた。
全障研とともに事務所を
障害者運動に積極的に関わる中で、私たちと全国障害者問題研究会(全障研)とのつきあいが始まっていた。
そんなある日、私は、新宿にある全障研の事務所に遊びに出かけた。6畳一間のアパートを事務所として使用していた全障研も、また事務所を求めていることをそのとき知った。世間話の中から、言友会が事務所を作ろうとしているとの話がでた。そして共同出資で事務所を建てようというところまで話が進んだ。建築費用は折半し、所有は言友会で、5年間無料で全障研が1室を事務所として使い、5年たった時点で全障研が出した金の半分を返却するという条件は、私たち言友会にとっては願ってもないことであった。しかし、借地権買い取りその他ですでに80万円近いお金を使いきり、私たちにはお金が全くなくなってしまっていた。私たちはまた金策に苦労しなければならなくなった。
その年5月の第4回言友会全国大会(名古屋)では、事務所新築を東京言友会のものと考えず、全言連の事務所として位置づけ、全国でカンパ運動に取りくむという大会決定がなされた。
全国の仲間に励まされ、私たちはまた活動を開始した。私たちは再び街頭へ出るとともに、全会員にさらにカンパを要請した。
カンパとともに、自分たちの力で少しでもお金を稼ごうと建築を請け負ってくれた建築会社でのアルバイトが始まった。毎週日曜日私たちは朝8時に集合した。建築資材の整備が私たちの仕事であった。炎天下まっ黒に日焼けした私たちは上半身裸で作業に励んだ。交通費は自己負担、さらにそこで得た報酬は全て事務所建設の費用になるという条件の中でも多くの人が参加をしてくれた。働いている人にとっては日曜日は休息日、それを返上しての参加だった。近くを通りかかったからと西瓜の差し入れをしてくれた会員、また建設会社の人の善意に励まされながら、私たちは汗にまみれた。
「風呂代ぐらいは出そう」
と言うと、
「風呂代、出してくれるのですか?」
と若い会員がうれしそうに言った。その頃の風呂代はまだ50円だったであろうか。みんなと汗を流しあい、風呂につかりながら、一日の仕事ぶりを話しあった。
「今日の分はトイレのタイル分ぐらいかな」
私たちは、新しく建つであろう建物に思いをはせた。このバイトは、事務所が新築されてからも続いた。言友会のエネルギーが一気に爆発した頃の活動は楽しかった。事務所には常に5、6名が泊まりこみ、記念祭に、文化祭に、合宿にと言友会三大行事に取りくんだ。事務所新築が決まり建設会社との契約をかわした私たちは、次の目標、5周年記念大会へとエネルギーを集中させた。映画『若者たち』のスタッフを囲んでの討論会、みんなで歌う歌「言友会の歌」の発表、夢のような企画が会員のしゃにむな活動によって現実のものとなっていった。
言友会の歌は、「若者たち」「昭和ブルース」の作曲家、佐藤勝氏が心よく作曲を引きうけてくださった。言友会の歌がテープによって届けられたとき、事務所で仕事をすませたあと、みんなで何度も何度も聞いた。さっそく生演奏のあるビアホールに楽符を持っていき、演奏してもらった。お客さんはどもりの人たちの歌とも知らず、私たちの歌に手拍子を打った。愉快だった。
当日は、いろんなサークル、障害者団体の人びとがかけつけてくれ、400名の人が言友会の創立5周年を祝ってくれた。その数日後に旧事務所の取り壊しがあった。
いろいろな活動があった。けんかをしたり飲んだりした。失恋に泣きむせんだ人もいた。ボロ屋だけど本当にみんなが親しんだ事務所が今取り壊される。私たちの思いを知る由もない建設会社の人たちが無造作に取り壊していく。
「もっと大事に扱ってください。」
10名ほどの会員の見守る中、事務所は音をたてて崩れていった。涙が一筋、ほおを伝った。ありがとう。長い間ありがとう。私たちは心の中で叫んでいた。
『吃音者宣言 言友会活動10年』 (たいまつ社) 1976年より
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年9月16日