前回の続きです。

第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会

日時  2012年8月4・5日
会場  千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み

<講演>
   ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜

       奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男


前回の続きです。


ソーシャル・スキル

 考えてみると、人間がこんなにしゃべるようになったのはここ4,50年じゃないか。そういうなかにあるからこそ、対人関係のちょっと厳しい、気が利かない、空気が読めない人たちが浮かび上がるようになっていると思うんです。そのなかで発達障害の子どもが取り出されて、ソーシャル・スキルのトレーニングがなされる。そのことそのものの意味を私は否定するつもりはありません。その訓練で対人関係を円滑にするスキルが一定程度でも身につくのなら、まあそれはそれでいい。だけど、ほんとうのところ、それは抜本的な解決にはならない。むしろとにかくスキルを高めなければという錯覚をさらに強めているところがある。

 ソーシャル・スキルというような用語を使えば、まるでソーシャル・スキル一般というようなものが客観的にあるみたいに聞こえますが、本当はそう簡単じゃない。質問紙で、これの何項目か当てはまれば発達障害ですよ、と言います。そこで問われるようなスキルがどこかにあって、それを育てることが非常に大事だと思われますが、そもそもソーシャル・スキルって何だろうと考えたとき、人一般とつき合うスキルなんてありえない。人一般ではなくて、おじいちゃんおばあちゃんとつき合うとか、おじさんおばさんとつき合うとか、同年齢の仲間とつき合うとか、あるいは赤ちゃんとつき合うとか、障害をもってる人とつき合うとか……、いろんな人とつき合うソーシャル・スキルがあるはずです。ところがソーシャル・スキル一般みたいなものがあるかのように考えて、苦手だと思われる質問項目をなんとか訓練してうまく生きていけるようにしましょうというふうになる。それは子どものためという善意で行われるのでしょうが、そこには奇妙な逆説もある。

実際、ソーシャル・スキルの苦手な子どもたちが別のクラスに集められて訓練をされると、ソーシャル・スキルの問題がない子どもたちはソーシャル・スキルの苦手な子どもとつき合う機会が少なくなり、その子どもたちとつき合うソーシャル・スキルを失っていく。これはまずいと私は思うんです。もともとソーシャル・スキルの苦手な子たちもいて、努力したからといってそれはそう簡単には変わらない。むしろそう知ってつき合っていけば、そのソーシャル・スキルの苦手な人たちとのつき合い方も身についてくるわけで、そのことが僕は大事だと思うんです。

 障害をもつ子どもたちを特別に訓練するために、特別支援学級とか特別支援学校を用意するという発想は、実は結果として、その障害をもつ子たちだけの集団をつくることになる。そうすると、障害をもたない人たちは、障害をもつ人たちとつき合う機会を失い、そういうソーシャル・スキルを失っていく。そうなると、障害をもっている人ともっていない人がともに生きていけるような社会はそれだけ形成されにくいということになります。今は問題をすべて個人の能力に集約してしまって、その個人の能力をいかに伸ばすかという話になっているから、社会全体のなかではむしろ両者を分断して、結果的にはお互いがともに生きあえない世界をつくってるということになるんだと思うんです。

 ソーシャル・スキルというものを能力として取り出して、個人の中で、その能力を伸ばせばいいんだという発想は間違ってると私は思います。問題を個人の中にすべて集約させて、個人の力を伸ばす、個人の障害を治す、軽減するというところにはまりこんでいるのが、今の私たちの教育観、発達観です。だから「発達」が流行るんですが、それは実はものすごく困ったことなんです。個人の能力、個人のスキルを育てる、そういう考え方が蔓延して、人の多様性をそのありのままに認める発想がどんどん少なくなっているのです。世の中にはややこしい人もいれば、そうじゃない人もいて、お互いがお互い様で生きているはずなのに、そういう感覚がどんどん失せてしまっている。そんななかで障害も努力すれば治る、訓練すれば軽くなるという発想が強くなってしまっているんですね。

 たとえば吃音を例に言えば、吃音はおかしい、ほとんどの人が吃音なしにちゃんと喋れているにそれができないのは不思議だ、どうして吃音になってしまうのかというふうに言われがちですが、じゃあ吃音ではない人がどうしてどもらずにしゃべれているのかというと、実はこれもわからない。どもらずにしゃべれているのも実は相当に不思議なことなんです。こんなにぺらぺらと、どもりもせずによくしゃべるなあと思う。人はいちいち頭の中で次に何をしゃべろうかなどと考えずに、次々と口からしゃべっている。口先でしゃべっている。自ずとそうなっているわけで、スキルがきちっとあってそれをうまく組み立ててしゃべっているわけじゃない。からだで自ずとしゃべって、それがごく自然になってしまっている。だから、どもるのが不思議なんじゃなくて、どもらない私たちの方がずっと不思議なんです。なんでどもらずにしゃべれるのだろうか、なんでうまく舌をかまずにしゃべっているんだろうと思いはじめると、訳がわからなくなります。そう考えると、障害が不思議ではなくて、障害をもってないことの方が本当は不思議なんです。
 
3歳、4歳になればたいていの子どもがぺらぺらしゃべっているのに、その年齢でまだ全然ことばが出てこない子がいたとすれば、たいていの人は「みんなしゃべってるのに、なんでこの子はしゃべられへんのやろう」となります。けれど、逆にぺらぺらしゃべる子どもを前にして、生まれて3,4年でなんでこんなによくしゃべれるのかと考えたら、それがよくわかりません。言語発達心理学の本を読んでも、人がそんなふうにしゃべれるようになるメカニズムはわかっていない。障害の部分を取り出して、どうしてみんなができていることができないんだろうというけれど、本当に不思議なのは、まともにしゃべってる子ども、まともに育っているといわれている子どもの方で、そっちの方がずっと不思議なんです。
 
だけど、障害をもってない方が多数派ですから、少数派の方が「どうして?」という目で見られてしまう。そうじゃなくて、自分たちがしゃべれている方が不思議だと思えれば、多少どもる人がいても、言おうとしていることはわかるわけだから、ちょっと待てばわかるんだし、それでいいじゃないとなる。ところが、実際にはなかなかそんなふうに思ってくれなくて、許されない。どうしてそうなるんだろうと思います。そりゃ聞く方もちょっとつらくなったりすることがあるけれど、それでもそんなものだと思えばいいわけです。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/18