前回の続きです。
第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会
日時 2012年8月4・5日
会場 千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み
<講演>
ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜
奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男
かつては家庭と地域が
子どもの生活のメインだった
こういうことを言わなきゃいけなくなった時代が、ここ50年なんです。学校教育は140年の歴史がありますが、最初の100年ぐらいは学校はドミナントじゃなかった。地域、家庭がドミナントだったもので、学校は副次的、子どもたちの世界ではサブだった。メインじゃなかった。ですから、なんとか済んでいたんです。
たとえば具体例をあげますと、僕らの子ども時代は「農繁休業」がありました。百姓の子は農繁期、つまり、田植え、麦刈り、秋の稲刈り、芋ほりの時期は学校を一週間ほど休む。そうじゃない子たちは学校に行く。そうすると学校に行ってる子は、「休めていいなあ」と言うけれど、実は学校の方がずっと楽だから百姓の子にとっては農繁休業は嫌なんです。だけどそれは、休んでいいというかたちで学校が地域、家庭の方に譲っていたんです。そういう時代がありました。メインは家庭や地域の生活、しかも学校の勉強なんかできなくてもかまわないという文化があ日った。進学がなかった時代、中学校を出た先は、成績が良かろうと悪かろうと一緒だった。僕らの子ども時代は、成績のいい悪いが自分の人生を決めなかった時代です。比喩的に言うと、男の子にとって学校の勉強ができるかできないかは、相撲が強いか弱いか、走るのが速いか遅いかとあまり変わらない値打ちの時代だった。その中で、子どもたちにとって学校はメインじゃない。学校はサブで、地域や家庭の生活がメイン、そうした時代が100年続いて、その後の50年が今の子どもたちの時代と言っていいんじゃないかと思うんです。
ですからこの50年の変化は相当に大きく、学校がメインで、学校の物語がドミナント・ストーリーになっている。力を伸ばすことが大きな意味をもち、力を身につけて試験で発揮するところに大きな価値が見出されてしまっている。障害をもっている子どもたちにとっては、障害を治すということが、あるいは軽減するということが最大の課題になっている。そんな状況の中に、子どもたちはいるわけです。力を使って生きるということじゃなくて、力を身につけることそのものに焦点があてられるようになっているというあたりを、私たちがどうとらえていくかが、非常に重要な課題になっているんじゃないかなと思います。
子ども時代は、
大人になるための準備の時代ではない
今、子ども時代は将来大人になるための準備の段階で、子どもは将来に備えて準備をする存在だと思われています。だけど、考えてみますと、人生の中で準備の時代ってあるのでしょうか。子どもは大人になるための準備の時代を生きているんじゃなくて、むしろ子どもは子どもの本番を生きている。その時その時をその子どもとしての手持ちの力で生きている。それがごく当然の見方だと私は思っているんです。
障害児教育のなかでも、社会に出た時にちゃんと困らないように準備をしましょうみたいな話になりがちで、そのためにとにかく力を伸ばすのが大事だというような錯覚に陥る。最近、「発達障害」ということがさかんに言われるようになって、ソーシャル・スキルの問題が前面に出るようになっています。じっさい、発達障害の人が増えているように言われますが、診断基準が時代によって変わりますので、ほんとうに増えているのかどうか、数値で比べてもわからない。ただ、特別支援学校や特別支援学級に入っている子どもたちが増えているのは間違いないのですが、それはむしろ発達障害に対する目が厳しくなった結果だと言った方が正確ではないかと思います。そんなふうに発達障害が注目されるようになった理由のひとつははっきりしていて、産業構造が大きく変わってきたということなんです。かつては第一次産業、第二次産業が中心でしたから、仕事のうえで人と出会って、対面でコミュニケーションする領域は限られていた。ところが、今は、職業のほとんどが対人関係を必要とする。それだけ人間関係が重視される時代なんです。
そのことは子どもの生活領域にもあてはまるかもしれません。僕らの小さい頃、親とコミュニケーションというか、しゃべるなんてことがあまりなかった。親と顔を合わせてしゃべるとうのは、何か恥ずかしくて照れるというような時代でしたから、親と一緒に働きはしたけれど親とゆっくり話をしたなんて記憶がありません。でも今は、親と子がことばでしゃべらなければいけない場面は非常に多い。友だち同士の遊びなども、かつてのように自然の物を相手にする遊びではなくて、ほとんどがことばを使った人相手の遊びになりますから、結局は人間関係がむき出しになってくる。人間関係の中で何かをつくりだして、共同の生活が成り立つのがかつての人の生き方だとすると、今は、むき出しの人間関係のなかで、貨幣のやり取りを通して、なんとか生活のための稼ぎをしなければならない。そういう構図になっているために、どうしても人間関係が前面に出てしまう、そういう時代なんですね。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/18
第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会
日時 2012年8月4・5日
会場 千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み
<講演>
ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜
奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男
かつては家庭と地域が
子どもの生活のメインだった
こういうことを言わなきゃいけなくなった時代が、ここ50年なんです。学校教育は140年の歴史がありますが、最初の100年ぐらいは学校はドミナントじゃなかった。地域、家庭がドミナントだったもので、学校は副次的、子どもたちの世界ではサブだった。メインじゃなかった。ですから、なんとか済んでいたんです。
たとえば具体例をあげますと、僕らの子ども時代は「農繁休業」がありました。百姓の子は農繁期、つまり、田植え、麦刈り、秋の稲刈り、芋ほりの時期は学校を一週間ほど休む。そうじゃない子たちは学校に行く。そうすると学校に行ってる子は、「休めていいなあ」と言うけれど、実は学校の方がずっと楽だから百姓の子にとっては農繁休業は嫌なんです。だけどそれは、休んでいいというかたちで学校が地域、家庭の方に譲っていたんです。そういう時代がありました。メインは家庭や地域の生活、しかも学校の勉強なんかできなくてもかまわないという文化があ日った。進学がなかった時代、中学校を出た先は、成績が良かろうと悪かろうと一緒だった。僕らの子ども時代は、成績のいい悪いが自分の人生を決めなかった時代です。比喩的に言うと、男の子にとって学校の勉強ができるかできないかは、相撲が強いか弱いか、走るのが速いか遅いかとあまり変わらない値打ちの時代だった。その中で、子どもたちにとって学校はメインじゃない。学校はサブで、地域や家庭の生活がメイン、そうした時代が100年続いて、その後の50年が今の子どもたちの時代と言っていいんじゃないかと思うんです。
ですからこの50年の変化は相当に大きく、学校がメインで、学校の物語がドミナント・ストーリーになっている。力を伸ばすことが大きな意味をもち、力を身につけて試験で発揮するところに大きな価値が見出されてしまっている。障害をもっている子どもたちにとっては、障害を治すということが、あるいは軽減するということが最大の課題になっている。そんな状況の中に、子どもたちはいるわけです。力を使って生きるということじゃなくて、力を身につけることそのものに焦点があてられるようになっているというあたりを、私たちがどうとらえていくかが、非常に重要な課題になっているんじゃないかなと思います。
子ども時代は、
大人になるための準備の時代ではない
今、子ども時代は将来大人になるための準備の段階で、子どもは将来に備えて準備をする存在だと思われています。だけど、考えてみますと、人生の中で準備の時代ってあるのでしょうか。子どもは大人になるための準備の時代を生きているんじゃなくて、むしろ子どもは子どもの本番を生きている。その時その時をその子どもとしての手持ちの力で生きている。それがごく当然の見方だと私は思っているんです。
障害児教育のなかでも、社会に出た時にちゃんと困らないように準備をしましょうみたいな話になりがちで、そのためにとにかく力を伸ばすのが大事だというような錯覚に陥る。最近、「発達障害」ということがさかんに言われるようになって、ソーシャル・スキルの問題が前面に出るようになっています。じっさい、発達障害の人が増えているように言われますが、診断基準が時代によって変わりますので、ほんとうに増えているのかどうか、数値で比べてもわからない。ただ、特別支援学校や特別支援学級に入っている子どもたちが増えているのは間違いないのですが、それはむしろ発達障害に対する目が厳しくなった結果だと言った方が正確ではないかと思います。そんなふうに発達障害が注目されるようになった理由のひとつははっきりしていて、産業構造が大きく変わってきたということなんです。かつては第一次産業、第二次産業が中心でしたから、仕事のうえで人と出会って、対面でコミュニケーションする領域は限られていた。ところが、今は、職業のほとんどが対人関係を必要とする。それだけ人間関係が重視される時代なんです。
そのことは子どもの生活領域にもあてはまるかもしれません。僕らの小さい頃、親とコミュニケーションというか、しゃべるなんてことがあまりなかった。親と顔を合わせてしゃべるとうのは、何か恥ずかしくて照れるというような時代でしたから、親と一緒に働きはしたけれど親とゆっくり話をしたなんて記憶がありません。でも今は、親と子がことばでしゃべらなければいけない場面は非常に多い。友だち同士の遊びなども、かつてのように自然の物を相手にする遊びではなくて、ほとんどがことばを使った人相手の遊びになりますから、結局は人間関係がむき出しになってくる。人間関係の中で何かをつくりだして、共同の生活が成り立つのがかつての人の生き方だとすると、今は、むき出しの人間関係のなかで、貨幣のやり取りを通して、なんとか生活のための稼ぎをしなければならない。そういう構図になっているために、どうしても人間関係が前面に出てしまう、そういう時代なんですね。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/18