第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会

日時  2012年8月4・5日
会場  千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み

<講演>
   ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜

       奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男



相手に伝わる、受け止めること
    −言語訓練の無意味


 以前、私は花園大学の福祉系の学科にいました。そこには、障害をもつ学生が結構いました。盲や聾(ろう)、四肢欠損の人や肢体不自由の人も多かった。僕が勤めてすぐの、今から30年以上も前は、肢体不自由で、知的に問題のない人たちが相当、養護学校に行っていた時代です。印象に残っている脳性まひの学生の話をします。
 手足はそんなに不自由ではなく、他の子が少しペースを緩めれば一緒に補助具なしで歩くことができる。手の方も少し不器用だが、レポートや試験の時はマス目を少し大きくするくらいの手立てでよかった。ただ発音がはっきりしない。構音がうまくいかないので訓練をしようということで、小学校1年生から言語訓練を受けて、大学まできた。ところが、本人はその言語訓練が嫌で嫌でしょうがなかったというんですね。発音をはっきりさせようとの訓練ですから、1年生ぐらいだったら絵カードを見せて、特に発音しづらいものを取り出して、「これは何ですか」と聞かれる、それで「りんご」と答えるというような訓練です。おもしろくないのは当然ですね。先生にとっては、この社会で生きていくためには発音をはっきりさせなきゃと、一所懸命に訓練・指導に励むのですが、それが本人は嫌いだったと言います。

 自分の思いをことばで相手に伝え、相手にその思いを汲み取ってもらってコミュニケーションの世界は広がるものです。ですから、私たちは相手がおそらく知らないだろうと思うことをしゃべる。また相手にものを聞く場合は、自分が知らないことを相手は知っていると思うから聞く。ところが、学校ではその原則がしばしば崩れる。先生は自分が知っていることを子どもに聞く。これはコミュニケーションとしてはすごく歪(いびつ)です。絵カードを指して、「これは何ですか」と聞く訓練は、発音がはっきりしゃべれるかどうかを試すものであって、実際はコミュニケーションでも何でもない。学生も、そのことを知っているから言う気にならない。発音を訓練しているんだからしっかり言いましょうという場に置かれて、本人は当然おもしろくない。コミュニケーションのための力を伸ばすと言いながら、その場がコミュニケーションの場になっていないという非常に屈折した状況になっている。これでは子どもが嫌になるのも当然です。

 同じような話を、STになりたての人から随分昔に聞いたことがあります。脳溢血で倒れたおじいちゃんが命はとりとめて回復した後、失語症のリハビリをすることになった。それではじめてリハビリ室に入った時、STから「お名前は?」と聞かれたのですが、おじいちゃんは自分の名前が言えない。冷や汗をかきながら努力しても言えない。その自分の障害の現実をつきつけられて何とも言えない思いに駆られるんですが、そのうち、そのおじいちゃんは、STの前のカルテに自分の名前が書かれていることに気がついたんだそうです。「お名前は?」と聞かれたが、名前を知らないから聞いてるんじゃなくて試されているんだとわかって、ぞっとしたという話です。本人が回復してからそのことを聞いたSTは、自分は一体何をしていたんだろうと思ったといいます。
 
 生活の中で伸びる力

 養護学校で言語訓練を受けて大学までやってきた先の彼は小学校、中学校、高校と、その言語訓練を受けてきて、嫌で嫌でしょうがなかったし、その訓練で力が伸びたとも思えないと言っていました。客観的にどうだったかはわかりませんが、とにかく本人の思いとしてはそうだったのです。

 ともあれそうして彼が大学に入ってみますと、他のほとんどの学生たちは、すぐに友だちの輪をつくって楽しい学生生活をはじめている。けれど、彼は、自分の発音がはっきりしないから、周りが理解してくれないだろうし、自分のはっきりしない言葉を聞き取ってはもらえないのではないかという引け目があった。それで、みんなが楽しくしているなかで、彼はひとりでぽつんとしている状況がしばらく続いたのだそうです。

 でも、あるとき彼は思いなおすんですね。自分も大学に入学した以上、勉強もしたいし、友だちとも楽しく遊びたい。それなのに、こんなうつうつしていてはつまらない。そういう思いで思い切って友だちの輪の中に飛び込んでみた。それで彼がしゃべり始めると、発音がはっきりしないので、周囲の友だちはわからない。でも、わからないからといって、のけ者にしよう思うような人はいないものです。

 彼が一所懸命に話そうとしますと、周囲も一所懸命に聞こうとする。聞こうとする姿勢が相手に見えると、こちらも一所懸命しゃべろうとする。そうしているうちにだんだんとわかるようになって、1,2ヶ月もすると彼の言うことはほとんどわかるようになってきたというんですね。そで彼自身も「発音がはっきりしてきたと思います」と言う。客観的に測っていないからわからないのですが、伝わるようになった実感はすごくあったんですね。おそらく周りの人の耳が慣れてきたことが大きいと思いますが、とにかく発音がはっきりしてきて、自分のことばが通じるようになってきたように思えるようになった。

 これは何なのかということです。彼は友だちの輪に入る前に、改めて養護学校の先生のところに行って、言語がはっきりしないと困るからと言語訓練を受け直したわけじゃない。彼はそのときのはっきりしない発音のまま友だちの輪の中に入って、自分の手持ちの力を一所懸命最大限使おうとして努力した。相手はそれを聞き取ろうとして努力する中で力が伸びてきたように思う、ということなんですね。

 力は身につけて、使って、根を下ろす

 力を伸ばすというとき、その伸ばした力は、たった今使うところで生きてくる。この当たり前のことをどこかで私たちは忘れている。学校教育の中で力を伸ばすというときには、伸ばした力は貯まるものだというのが前提になっていて、その貯まった力は将来使うものだと思っている。これは相当の錯覚だと思います。力は身につけただけでは貯まらない。使わなければ根を下ろさない。リハビリの世界で「廃用の原則」と言われている原則があります。つまり、使わない力は萎える。これはごく当たり前の原則です。筋肉という比較的単純な器官でも、80歳くらいの人が骨折してベッドでの生活を1ヶ月間もすると、その間筋肉を全然使わない。すると、骨折は癒えたけれど、ベッドから降りたとき立てなくなっている。力は使わなければ萎えるんですね。

 これはごく当たり前のことですが、学校教育の中ではその当たり前の事実を見つめようとせずに、とにかく大事な力だから身につけましょう、身につけば、身についたかどうかを試験で試しましょうとなる。それで点数がついて、合格点に達すればちゃんと進級できるし希望の学校に上がれる。試験が終わってしまえば、もう身につけたはずの力が萎えて、なくなっていても別にかまわないし、現に力は萎えて、もう使い物にはならない。そうして小・中・高・大という学校教育制度のハシゴを渡るためにだけ力を身につけるということが結果的に起こってくる。このことが、私は今の子どもたちの育ちを大きく歪めていると思います。力は身につけて、使って、根を下ろす。この当たり前の感覚を失って、教師も子どもも保護者もその錯覚の中にはまり込んでしまって、非常にしんどい思いをしていると思うんです。

伝えようとすることが基本、
      伝えるかたちは二の次


 「治す」という発想も同じです。伝えよう、しゃべろうということは、人に自分の思いを伝えることですから、伝えるかたちがつたなくても、あるいはどもっても、伝わればいい。どもるかどうかは関係なくて、思いを伝えることが基本です。ことばってそういうものです。伝えたい思いを横において、その伝え方に意識がいってしまうと、人に馬鹿にされないかたちで伝えたいというようなことが先にたってしまう。そうしてと、大切な伝えたい思いよりも伝えるかたちの方が前面に出てしまう。それで伝えたい思いのほうがかえってそこなわれてしまう。そうした状態は、当然、そこを乗り越えなければいけない。

 「英国王のスピーチ」の映画を私も観ました。最後の場面で彼が開戦のスピーチをするとき、国王として伝えることが基本で、伝えるかたちは二の次だと開き直って、ようやく囚われていたジレンマを乗り越えることができたのかなと、私は思いました。
 力は使ってはじめて根を下ろす、使うために力を身につける。そう考えれば、どもっても伝わればいいというのが基本なんですが、私たちはしばしばそのことを見失って、錯覚してしまう。

 今の時代は、子どもたちの育ちについて、力は身につけば将来使えるから、それをいましっかり身につけて準備しましょうというのが常識になっていますが、そこでは力のもつ意味を取り違えている。身につけた力は身につけたそのときに使ってはじめて意味を持つにもかかわらず、そのことを忘れている。ただ誤解のないように言い添えておけば、私が身につけた力を使うといったときに必ずしも実生活で応用が利くということを言いたいわけじゃない。学校で教わることのなかには実生活ではほとんど応用しないようなものもたくさんあります。微分積分なんか、習ったけれど一度も使ったことのない人がほとんどでしょう。

 それじゃ意味がないのかというと、それは違うと思う。全員に無理して教えることはないと思うけれど、微分積分をわかるようになった子どもたちにとっては、それで数学の世界が圧倒的に広がる。それが本人の喜びとなるし、楽しみにつながる。身につけた力を使った世界が広がるんですね。本来そういうものだと思うんです。古典だって、学校で習ったけれども卒業してからは一度も読むことがないという人がほとんどでしょうが、古典を学ぶことで昔の人が使ってることばのままに、その人たちの世界を体験し直すことができる。それがすごくうれしい。そういう目で見直せば、学校の勉強はみんな大事だと言っていいんだろうと思うんです。ただし、それは、学んで身につけた力によってそれを使った世界が広がるということで、そうなったときにはじめて学ぶことが意味を持つと思うんです。

 このあたりが今の子どもたちの育ちの中ですごく錯覚されていて、将来社会に出たときに必要になるという立て前で勉強しているんだけれども、実際は、小・中・高・大という学校教育の制度のハシゴを渡るために学力が求められているだけで、そこを渡り終われば、学力は剥げ落ちてもかまわない。学校のなかで多くの子どもたちはいまそういう非常に惨めな学びを強いられている、僕はそう思うんです。 −続きます−

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/17