第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会

日時  2012年8月4・5日
会場  千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み

<講演>
   ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜

       奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男


前回の続きです


今子どもたちの世界をおおっている『錯覚』

 世の中全体を包んでいる物語、当たり前だと思われている物語を、ちょっと横に外して眺めてみると、そこには相当の錯覚が入り込んでいるように思います。錯覚が怖いのは、みんなが錯覚すると錯覚でなくなるからです。
 「子どもは弱い存在だから大人から守られなければならない、そしてそのなかで将来必要な力を身につける」
 このドミナント・ストーリー、世間一般に通用しているこの支配的な見方は、一見当然のことのように見えるのですが、一つひとつよく見てみると、どうもおかしいということに気づきます。一つには、子どもが大人から守られるのは当然だけれど、守られっぱなしの状況が今の子どもたちを包んではいないだろうか。これが一つの疑問です。
 もう一つ、「将来必要な力を身につけていく」という点ですが、赤ちゃんの時代は本当に無力で、生活者としてはひとりで生きていけない。その状態から将来大人になっていくためには膨大な力を身につけなきゃいけない。そのこと自体は正しいのですが、力を身につけて、その力をちゃんと使って生きているのかを考えたときに、今の子どもたちの状況は必ずしもそうはなっていない。
 この「守られながら」と、「将来必要な力を身につける」の両方に少しずつ疑問があります。
 今の子どもたち、とりわけ障害をもっている子どもたちの障害に対するドミナント・ストーリーは「治す」「力を身につけ、伸ばす」ということで、それは共通ですから、この講習会で論議されていることと重なるんじゃないかと思いますので、少しお話します。
 
 子どもは、守られっぱなしの存在ではない

 子どもは弱い存在で、大人から守られなきゃいけないというのはその通りだけれど、子どもは本来守られっぱなしではないはずです。今は「子どもを守れ」のキャンペーンがなされていて、とりわけ児童虐待等の問題が表に出る状況では、たしかに子どもは当然守られなきゃいけない。

 私は1947年の生まれで、子ども時代は1950年代から60年代です。その時代の子どもと、今の子どもを比較すると随分違います。よく子どもが変わったというけれど、生き物としての子どもがそうそう簡単に変わるとは考えられない。変わったのは子どもの生きている時代、状況です。ここ50年の大きな変化です。一番大きな違いは、昔の子どもたちは働いていたことです。家庭の中に仕事があった。私の家は百姓で、自給自足の生活で、衣服、学校の勉強道具など、お金でまかなうのはせいぜい2割程度ではなかったかと思います。家族はみんな一緒に働いていた。街に住む子どもたちも、もっぱら守られる存在だったかというとそうじゃない。洗濯機、掃除機、炊飯器、冷蔵庫がないだけでも家の仕事がどれだけ増えるかが見当つくと思います。子どもは、家族の生活の一部を担い、家族の共同生活の一部を守っていたのです。

 「子守り」のことばが差別的だということで、いまは死語になりましたが、学齢期前後の子どもが赤ちゃんを背中におんぶしている風景は日常的にあった。言ってみれば子守りは子どもの文化だった。子どもたちは大きく言えば守られていたが、一方的に守られる存在ではなく、自分より弱い存在を守る立場にもいました。子育ての文化を吸収した子どもたちがサイクルを経て、自分が大人になり子どもができたときに、その子育ての文化の延長上で子育てが行われる。これが人類の継続の仕方だったんだろうと思うんです。今は、赤ちゃんの世話をしたことのない状態で大人になり、自分の子どもが生まれて初めて赤ちゃんを抱く。守られっぱなしのまま大人になって、そこで初めて守る立場になるという奇妙な構図になっているのです。

 虐待問題などもそこに起因している、とまでは言いませんが、そうしたファクターが相当大きいと私は思っています。子育ては、家族の中で誰かできる人が担う。父親、母親が畑仕事で忙しければ、当然きょうだいが見ていた。そういう構図の中で人間は生きてきた。

 ところが、ここ50年、子どもたちは、「子どもとしての力」を発揮する機会を奪われてきた。小学校の高学年であれば、大人の仕事の半分ぐらいはできる。大人が一日かけて一枚の畑を耕せるとすれば、男の子2人が手伝うなら、父親が一日かかる仕事が半日で済むので助かる。そうして家族が共同生活者として生きてきたのが、人間の自然な形だったと思うんです。都市生活を送っていた子どもたちも、その時その時の手持ちの子どもとしての力を発揮することを求められ、そのことで親たちに喜ばれ、自分自身の存在の価値を確認できた。仕事はしんどくて嫌だけど、自分の力で共同の生活が成り立っていると実感を持てた。しかし、今、子どもたちはそういう力の発揮は求められなくて、学力を身につけることばかり求められている。そこには相当大きな錯覚があると思う。

 子どもの育ちを「力が伸びる」とか「力を伸ばす」とかいいますが、いまはそこにばかり目がいくようになっています。障害の人に対しては、障害を何とか治すという発想が強固に出てきたのが、ここ50年だと私は思います。力があろうとなかろうと、その手持ちの力を使って生きるという、ごく当然の発想がだんだんと見失われてきて、個人として力を蓄えなければこの世の中でちゃんと生きていけないというふうに思われている。しっかり学び、しっかり身につけ、障害は治しましょうという話に巻き込まれてしまっているんですね。
 この構図がドミナント・ストーリーで、時代の変化とともにそうなってしまっている。力を身につけるのは当然だと思われやすいんですが、力を身につけることにはまり込んでしまったがゆえに、何のために力を身につけるかが見えなくなっているのです。

 身につけたら、使って生きるが基本

 一歳の子は、歩行の力が身につくとその力を使って世界が広がる。ことばの力が身につけば自分の思いをことばに乗せて相手に伝えるコミュニケーションの世界が広がる。衣類を自分で着ることができるようになれば、それだけ日常生活が自由になる。学齢前に身につけた力は、だいたい身につければすぐに使うことになっている。それが当り前です。

 ところが、学校に上がると、そこで身につけた力を日々を生きる暮らしの中で使っているかどうかが怪しくなってきます。もっとも読み書きの力などはすぐ使うところにつながります。今の私たちの生活にが文字が溢れていますから、だれもがいつも文字を見ているという生活をしている。しかし、見たら意味がぱっと入ってくる大人と、読み書きができない子どもとでは、同じ文字を見ても、見え方は当然違う。たとえば韓国のハングルの新聞を広げてみたとき、読めない人には、ただ謎の模様が広がっているだけです。それが、ハングルを覚え始めると謎の模様のなかから読める文字だけが浮かび上がってくるし、文字と文字とを重ねて単語が読みとれるようになると、謎の模様のなかから意味のあるその単語が浮かび上がってくる。これはすごくうれしいことです。子どもたちが文字の読み書きを学び始めたとき、すごく関心を持って、喜ぶのは当たり前です。力を身につけるということは、その力を使った世界が広がるということです。これが学ぶことの原点です。

 歩行の力が身につけば、ただちにこれを使って歩行の世界を広げる。そういうことを日々やってるから、体の中に歩行の力が根を下ろす。ことばもそうです。ところが、学校では力を身につけることばかり求められて、それを使うのは試験のだけでそれ以外にはないということになりがちです。これでは身につけた力が根を下ろすことはない。これは単純な育ちの原則です。

 学校の先生方の集まりに出たりすると、「この子たちにどういう力をつけるか、どうやったらその力は身につくのか」という話がよく出てきますが、一方で、その力を使って子どもがどう生きているかにはなかなか目がいかない。力は貯まるものだと思い込んで、一所懸命勉強して貯めることばかり考える。今は使わないかも知れないが、将来になればそれが役立つから貯めていくんだと言いますが、これはほとんど嘘です。じっさい、高校入試や大学入試で膨大な知識を学びんでも、試験が終わったら数ヶ月もするとほとんど剥げ落ちている。力を身につけることに必死になるが、身につけた力を使った世界をどう繰り広げるかにほとんど無関心の状況になっているんですね。これは非常に奇妙なことで、この錯覚は相当深刻な問題だと私は思います。

 日本の英語教育なんかはその典型です。私たちは中学校から英語を習い始めましが、これが成功したとは思えない。学校の試験以外に身につけた力を使う場面が全然ないないんですからね。試験では力を発揮できても、コミュニケーションの力として使うことがなければ、それによって世界が広がるということにはなりませんし、身につけた力も根を下ろさない。「将来のために、将来のために」といって英語を学んで、いよいよその将来がやってきたとき、その英語はほとんど使えないのですからおかしなことです。力を身につけることに一所懸命になるだけの今の学校教育のかたちは、大きな錯覚に包まれているいうほかありません。 つづく

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/17