今週末、全国から14名の仲間が集まり、第5回臨床家のための吃音講習会(8月11日12日)の実行委員会が合宿で行われます。
第4回に続いてテーマは、「子どものレジリエンスを育てる」です。一年一年と僕たちは吃音についての考え、実践を深めていますが、これまでの講習会の報告をします。
まず、講師として来て下さった、浜田寿美男さんの講演です。浜田さんには、たくさんの著書がありますが、基本的な考え方は、僕とほとんど同じだと、僕は考えています。長いですが、少しずつお読みいただければうれしいです。
第1回 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会
日時 2012年8月4・5日
会場 千葉県教育会館
テーマ 吃音否定から吃音肯定への吃音の取り組み
<講演>
ありのままを生きるというかたち 〜治すという発想を超えて〜
奈良女子大学名誉教授 浜田寿美男
浜田です。私は吃音の専門家でも当事者でもないので、今日の話が伊藤さんの話とうまく絡んでいくか不安な気持ちがあります。だけど先ほどの伊藤さんの基調提案を聞きながら、私が普段、障害の子ども、とりわけ自閉症や発達障害の子どもたちとの関わりで考えてきたこと、あるいは障害が直接問題にはならないが、学校の中でいろいろ問題を抱えている子どもたちと一緒に考えてきたことが、かなり重なると考えていました。
自己紹介
私は「発達心理学」で、子どもの育ちの心理学を長くやってきました。一昨年、63歳で定年退職して現場から身を引き、少しゆっくりしたいと思っていたのが、残念ながらゆっくりできていません。発達の仕事をしながら、裁判の仕事が多く、「法心理学」の世界に首を突っ込んでしまいました。きっかけは、1974年の「甲山事件」です。
知的障害者の入所施設・甲山学園で、2人の子どもがあいついで行方不明になって溺死体で発見されました。それが殺人事件にされたために、警察の捜査が進められ、学園職員の当時22歳の保母さんが逮捕されました。いったん不起訴になったのが、4年後に再逮捕されて1978年から裁判になりました。
彼女が疑われた理由は、2人のうちのあとの男の子が行方不明になる直前に先生がその子を連れているところを見たという学園の子どもたちの目撃供述です。唯一の証拠が知的障害の子どもの目撃供述なので、法の専門家だけでは無理だから、発達関係、障害の関係者に参加させることになり、知り合いに弁護士がいたので、私が関与することになりました。日本の裁判は、時間がかかります。1974年の事件が1978年に裁判になり、決着が、1999年です。無罪判決が確定するまで、25年かかりました。
第一審では、事案に応じて弁護士以外の人間が法廷で弁護人の役割を行うことができる特別弁護人という制度があり、私はその特別弁護人としてこの事件におつき合いをしました。これをきっかけに、それ以降、私は刑事裁判の仕事から抜けられなくなり、気がつくとどっぷりとつかっていました。今は私の仕事の8割、9割方は冤罪関係の仕事です。
やってないのにやったと間違われて、獄中にいる人たちの自白や、関連の目撃供述の分析の仕事がほとんどです。発達心理学の人間が刑事裁判で「うその自白」や間違った目撃の問題に関わるのは、二股をかけているように見えますが、私の中ではかなり共通している部分があります。この世の中のできごとについて、じっくり関わらなければいけない仕事として、それぞれさせていただいています。自己紹介めいた話をしましたが、最初に伊藤さんは少数派だという言い方をされましたが、私も少数派です。
なぜ冤罪は起こるか
確定死刑囚で獄中にいる人の冤罪だとの主張で関わっている事件が2件あります。
1961年の事件で、本人は85歳で獄中で無実を訴えている「名張毒ぶどう酒事件」と、1966年の事件で、現在、獄中で無実を主張している元プロボクサーの「袴田事件」です。また死刑事件ではありませんが、いま関わっている事件として「日野町事件」があります。滋賀県日野町で起きた事件で、無期懲役の判決を確定して獄中から冤罪の主張を続けていたのですが、かなえられないまま、今年の3月に獄中で亡くなり、遺族が再審請求を引き継ごうとしています。その人たちは、取り調べの過程の中で自白をしている。無実の人が死刑や無期懲役になるような大事件で、自分の首を絞めるような嘘の自白をするはずがないと、一般には信じられているかしれませんが、無実の人でも逮捕され、過酷な取調状況に置かれると、特別に精神力が弱くて根性がない人でなくても、状況次第で虚偽の自白に陥る可能性がある。私自身、事件にかかわるたびに、人間って結構弱い存在だと思い知らされます。
「光市母子殺人事件」は死刑が確定しましたが、私は弁護側の依頼でこれも鑑定しました。この事件の場合、元少年がやったことは間違いないですが、どのようにしてこの事件を起こしてしまったのかという経緯については、裁判所の事実認定に間違いがあるんじゃないか、元少年本人の主張には相当根拠があるんじゃないかということで、その分析結果を鑑定書を書きました。この事件は世間からの非難を強く受けた事件で、私のような主張は圧倒的少数派で、下手をすると脅迫状が舞い込んできたりします。
こういうところで生きていますから、伊藤さんも相当外れた人間かも知れませんが、私も相当外れた人間です。今、この講習会に参加の皆さんも、ちょっと外れる危険性のある人たちだと思いますね。世間から外れて生きるというのは相当しんどいことですが、世の中の真ん中にいるとなかなか見えないこと、少しはみ出してみてようやく見えることが結構ある。位置的には、少し外れているほうがいいと私自身は思っています。
発達関係の仕事の大先輩で、三年ほど前にお亡くなりになった岡本夏木さんは、何か迷った時には少数派につきなさいとよく言っておられた。「どちらか迷った時には少数派についたほうがいい。多数派につくと流れに乗るだけで考えなくてすむ。しんどいけれども、少し距離を置いて、流れから外れたほうが世の中はよく見える」と言うんですね。そうだなと思っています。
ドミナント・ストーリー
多数派であることは、ナラティヴ・アプローチの話で言いますと、ドミナント・ストーリーにはまっていることです。ドミナントとは支配的ということですから、これは世の中全体にある支配的な考え方のことですが、私たちの身の周りには、そうした多数派の支配的な物語があります。しかし、その多数派の主張が正しいとは限らない。世の中がしんどい状況になればなるほど、どっぷりはまっていることの問題性が見えにくくなるような気がします。
私は看板としては「発達心理学者」ですが、世の中が発達、発達と言うのが嫌なものですから、この看板を掲げながら、「発達、発達と言うことの方に問題がありはせんでしょうか?」という話をしています。その意味では、吃音問題でのここでの議論と、私の考えていることは結構共通するところがありますから、私なりに今の子どもたちが置かれている発達状況と重ねて、お話できればと思っています。 つづく
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/16