しばらく休んでいましたが、今日から再開です。今日、どんな媒体なのかは知りませんが、日刊「アメーバーニュース」に月9のドラマ「ラブソング」関連の記事として、吃音についてこのような紹介がありました。

●「吃音症(きつおんしょう)」とは…米国精神医学会の診断基準(DSM−5/精神疾患の分類と診断の手引)では「小児期発症流暢障害」と呼び、「神経発達障害群」に分類されている。2005年に施行された「発達障害者支援法」の中では「発達障害」に含まれ、支援の対象となっている。LD(学習障害)やADHD(注意欠如・多動性障害)などの発達障害、場面緘黙(ばめんかんもく)症等、社交不安障害(SAD)と併存する場合もある。現在でも“特効薬”や決定的な治療法は存在しない。

  吃音の本質は何も変わっていないのに、数年前には、考えられないような吃音の解説です。このような吃音の「ナラティヴ(物語)」が、どもる人本人にどのような影響を与えるのか。僕にはマイナスの影響しか頭に浮かんできません。

 <吃音症>は、僕が大嫌いなことばです。ほとんど毎日かかってくる、僕の電話相談「吃音ホットライン」ででも、「私は<吃音症>なんですが…」と前置きして話す人が、ときどきあります。まず僕は「<吃音症>ということばは、できたら、やめませんか」と、つい言ってしまいます。

 いつから<吃音症>が一般的に使われるようになったのか。僕の印象では、シリーズで紹介してきた「英国王のスピーチ」の字幕に入ってからでしょうか。<Stuttering>はこれまでずっと、<吃音、どもり>と訳されていました。厚労省の役人か、専門家かは分かりませんが、いつのまにか<吃音症>が出てきました。

 役人や専門家はともかく、どもる人本人が<吃音症>を抵抗なく使うのが、僕には理解できません。医療従事者にとって、<吃音、どもり>より、<吃音症>の方が、専門家としての「治療・改善」に好都合なのでしょう。何とか、医療モデルに吃音を引きずり込みたい。弱い、かわいそうな存在として援助したい。そんな思惑があるとしか、僕には思えません。

 僕は、悩んでいた時、「どもり」ということばが嫌いでした。「やもり」、「いもり」、「けれども」、「大森君」も嫌いでした。「ど」と「も」と「り」、この3文字のうち、2文字がつながっていることばは、「どもり」を連想させるからです。

 マスコミが自主的に「どもり」を自己規制し、放送禁止用語のようになったために、「どもり」が使われなくなりました。「吃音」はあまり一般的ではなく、「自分の名前が言えない、ことばが出ないのが、吃音だと、30歳になって初めてインターネットで知った」という人が現れています。

 「どもり」を死語にしたくない。私を取材した記者にそのことを話すと、みんなよく理解して下さいました。各新聞社がその後、「どもり」を使ってくれるようになりました。それは、記者が問題の本質を理解して下さったからでしょう。TBSの「報道の魂」(2005年10月16日放送)「ニュースバード〜ニュースの視点」では、アナウンサーも斉藤道雄解説委員も、なんども繰り返し、堂々と「どもり」と発言して下さっています。

 <吃音症>となると疾患になり、治療の対象になります。吃音を治療の対象にすべきではないと私は主張してきました。「どもり」は紀元前から知られている、古くからある、ひとつの、話すとき、発語するときの形です。それが、突然、<吃音症>とされる。このことばの暴力に、なぜ、どもる人がもっと敏感にならないのか、とても不思議です。

 ナラティヴア・プローチを勉強したとき、「人はストーリーを生きる」とありました。僕は、自分の体験を通して、そのことに強く納得したのでした。「どもり」はひとつの文化と言っていいくらい、人として生きるのに、様々なことを教えてくれるテーマです。そんな「どもり」を、<吃音症>と呼んでしまうと、貧弱なストーリーしか語れないと僕は思います。

 教育評論家の芹沢俊介さんが、僕の著書「新・吃音者宣言」(芳賀書店)の書評を書いて下さったものを紹介します。記事が読みにくいのではとテキストにもしました。紙面でも読めますが、文字データもつけました。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/12


芹沢 書評 PDF 001
 新・吃音者宣言        伊藤伸二著          芳賀書店1600円

   吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である
 長い吃音へのアプローチの歴史は吃音と吃音者を分離し、吃音症状にのみ焦点をあてた歴史だった。症状の消失、改善に一喜一憂するその陰に吃る主体である人間が置いてきぼりにされていたと著者は述べる。
 著者は三歳ころから吃りはじめた。しかし吃るということが、悪いこと、劣ったことだという意識をもった(もたされた)のは小学校二年生の秋の学芸会のときからであったと書いている。成績優秀だった著者は、ひそかに学芸会の劇でせりふの多い役がつくのではないかと期待していた。だがまわってきたのはその他大勢の役でしかなかった。

 落胆した著者は、友だちに、伊藤は吃りだからせりふの多い役をふられなかったのだと言われ、言いようのない屈辱感を味わう。そして教師への不信とあいまって稽古期間中に「明るく元気な自分から暗くいじけた自分に変わっていってしまった。いじめの標的になり、自信を喪失し、自分が嫌いになっていった。吃ることを自己存在を否定する核に据えてしまったのである。人前で話すこと、人前に立つことを避けるようになった。自己をも喪失した状態になっていったのである。

 著者はすべての不幸の原因は吃音にあると考え、必死に吃りを治そうと試みる。だが治そうとすればするほど、逆に自分の居場所を失うことにやがて気がつくのだ。
 この本はそこから吃ることの全面肯定にたどりつくまでの、著者の涙と笑い、苦しみと喜びの軌跡が綴られている。吃ることを症状として自己の外に置いてしまったことの内省のうえに立った、吃音の自分への取り戻し宣言である。

 吃る自己の全面的受け入れにはじまり、吃る言語を話す少数者としての誇りをもって、吃りそのものを磨き、吃りの文化を創ろうという地点まで突き進むのである。負の価値としての吃りの解体が目指されているのである。

 吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である。こうした自覚にいたるにはどうしたらいいか。
 まず吃音症状に取り組むという姿勢から離れること、吃音症状と闘わないこと、矯正の対象にしないことである。吃ることをオープンにしていくことも大切だ。いまでは幼稚園段階で吃音を意識する子どもたちが出てきている。親は子どもと吃音について話しあうために、自己の内部にある境界線を壊しておく必要があるだろう。

 さらには「吃ってもいい」を大前提に吃音を磨いていくには、吃音者は自分の声に向き合うという課題も生まれてくる。言葉とは何かを考えることも大切になってくる。長い間、虐げてきた自分の吃り言葉に無条件でOKを出すと、このように様々な喜びに満ちた未知が開けてくる。
 この本は意図された自分史ではない。そのときどきに発表されたエッセイの集積が、自分史を構成するまでに熟したものだ。子育て論、自分育て論に通底する爽快感あふれる一冊。

 伊藤伸二(いとうしんじ)伊藤伸二ことばの相談室主宰。日本吃音臨床研究会会長
2000.2.29      エコノミスト(毎日新聞社発行)      
評者 芹沢 俊介