ナラティヴ・アプローチの実際
    「吃音否定」から「吃音肯定」への語り



 言葉が生きる世界を作り出します。開戦スピーチの成功は、「どうしようもない王」という吃音否定の物語を、ローグを中心とした周りの人の力で、「やればできるかもしれない」という吃音肯定の物語に変えたことにあります。
 「英国王のスピーチ」の吃音治療は、結果として、ナラティヴ・アプローチになっていたと僕は考えています。
 ジョージ6世は、「どもっていては人から好かれない」「どもっていてはスピーチの成功はない」「どもっていると人は聞いてくれない」の物語を、子どもの頃から作り、自分で語り、それに捉われて、どもっていたら何もできないと思ってきました。
 親などから影響を受け、世間から影響を受け、自分自身で語り続けてきたのです。この吃音に対するネガティブな、悲しい苦しい物語を、新しい物語に変えたのが、この映画なのです。誠実であれば、責任感があれば、どんな場であっても、どもっても出ていける、人間として成長できるという新たな物語を語ることができたのです。それがナラティヴ・アプローチです。
 「英国王のスピーチ」には、物語を語り直すプロセスが描かれているといっていいでしょう。
 
   「まあいいか」、吃音肯定の語りへ

 映画の中で、吃音にまつわるネガティブな物語は再三再四語られます。吃音否定の物語が頂点に達したのが、1936年12月12日、王位継承評議会の場でひどくどもった夜、妻エリザベスの胸にすがって号泣するシーンです。
 「クリスマスの放送は、失敗するに決まっている。戴冠式・・・、これは大いなる間違いだ。僕は王じゃない。将校でしかない。王なんかじゃない。すまない。情けない」
 こような強固な吃音否定の物語を変えていくのは容易なことではありません。
 エリザベスを中心にした家庭では、吃音はそのまま肯定されていますが、それだけでは十分ではありません。「あなたの素敵な吃音を聞いて幸せになれそうと思ったから結婚したのよ」のエリザベスの言葉も、ローグの「あなたは立派な王になる」の言葉も、繰り返し繰り返し語り続けられました。映画の中で語られた肯定的な語りを拾いましょう。

 <妻・エリザベス>「私があなたと結婚を決意したのは、あなたの吃音が素敵だったから。あなたは立派な素敵な人だ」
 <父親のジョージ5世> 「兄は、他人の夫人にしか興味がない、父親にまで嘘をつく人間だ。もし彼が王になれば、一年以内に国は滅びるだろう。それを救うのはお前だ。おまえは兄弟の誰よりも根性がある」
 <後の首相・チャーチル> 「兄が離婚歴のある人と結婚をするからではなくて、不誠実で責任感に欠けている。戦争をする大事な時に、国民が本当に頼れる王が必要だ。あなたこそ、その、頼れる王だ」
 <ローグ> 「あなたは忍耐強く、誰よりも勇敢で、あなたこそ立派な王になれる」

 流暢にしゃべる社交的で聡明な兄よりも、弟のもつ誠実さ、責任感に価値を置き、弟の方が人間的に優れていると、父国王も、チャーチルら周りの人も語り続けるのです。
 言われたそのときには受け止められなくても、たびたび言われるこれらのメッセージを受けて、ジョージ6世は、「責任感を持ち、国民の声に耳を傾け、国民に対して誠実に語りかければ、いかにどもっていようと、国王としての役割が果たせるのではないか」と思い始めます。戴冠式の準備の時の、「I have a voice」は、吃音を肯定して歩む第一歩でした。そして、映画の最後のシーンに象徴的な言葉が出てきます。

 ローグと出会って5年、時には80日間連続してセラピーを受け、ジョージ6世も真面目に訓練に励みますが、全く効果がありません。

 突然入った開戦スピーチ。40分前に、ローグも呼ばれ、準備をします。大声で怒鳴ったり、歌うように言うなど、スピーチの数分前でも、いろいろと声を出す試みをしますが、声が出ません。まじめに厳しい訓練をしても変化のない吃音のまま、ジョージ6世はマイクに向かわざるを得ませんでした。スピーチの40秒前です。

 「結果がどうであれ、君の努力には心から感謝している」
 
 これは、言葉を変えれば、「いくらどもっても、私には語るべき言葉があり、語る権利がある。国民はそれを聞く義務がある」との物語ができたからです。どもるときは、どもりながら話そう、どもっても責任を全うしようと、ジョージ6世が覚悟を決めました。どもりながら、一言一言かみしめながら、間を置いて、丁寧に語ることばが、国民には伝わっていきます。
 セラピストであるローグは常に、新しい物語を彼に語らせようとしました。物語る材料は、セラピストであるローグにあったのではありません。「吃音があっても大丈夫」と、ローグがジョージ6世を説得したのではありません。ジョージ6世本人が語る物語の中から、材料を見逃さずにキャッチして、それをもとに物語る手伝いをします。
 家族療法のナラティヴ・アプローチをする人たちは、本人や家族が語るネガティブな物語から、何かヒントになる言葉を逃さずにキャッチします。ジョージ6世は、ネガティブな物語ばかりを語りますが、その中で、これまでと違う、長所を本人が語る場面がありました。
 父・ジョージ5世が死ぬ直前に、「あいつは、兄弟の誰よりも根性がある」と周りに言っていたと、ジョージ6世はローグに話しています。もっと早く父親が直接息子に話していれば、もっと早く肯定の物語に変えることができたでしょうに。
 妻も、父親も、チャーチルも、ローグも、再三「あなたは、王になる資質がある」と言い続けた言葉がだんだんと身に染み入っていったから、ジョージ6世は、最後の土壇場にきて、「たとえ、どもって立ち往生しても大丈夫。最後まで読み切ることで、自分の王としての責任をとることができる。立派にできる」と、どもる覚悟ができたのです。「失敗したら失敗するまでだ」と腹をくくることができたのは、周りの人の力を借りながら、新しい物語を、ローグとジョージ6世が、一緒に作り上げてきたと考えることができます。

   相手に向かって言葉を届ける
 
 不安と緊張が高ぶって、放送室に行く長い廊下を歩く時、チャーチルが、自分も言語障害だったが、自分なりに克服したと言います。実は、チャーチルは吃音です。チャーチルの吃音はジョージ6世の吃音よりも有名で、欧米のどもる人なら誰でも知ってるくらいです。その映像を、僕はクロアチアでの世界大会で見ました。「私もマイクが嫌いだったんだよ」と、チャーチルがさりげなく言ったのも、勇気づけになりました。
 飛び跳ねたり歌いながら声を出そうとしても効果がありません。いろいろやってもうまくいかない。もう駄目だと思ったとき、ローグが「聞いてもらう権利がある」と、ジョージ6世に言わせます。「権利がある、権利がある」叫ぶ内に、彼は、「私には、国民に聞いてもらう権利がある」と確信するのです。「聞いてもらう権利」という言葉、ディビッド・サイドラーの見事なシナリオです。 どんなにどもっても、聞いてもらう権利が私にはあると、自分に言い聞かせてスピーチの場に出て行きます。スピーチまであと3分というとき、国王としての覚悟ができていきます。そして、40秒前の、あの「結果がどうであれ、ローグ、君には心から感謝をしている」につながるのです。 

   ことばが人に届くとき
 「頭を空っぽにして、私に話しかけろ。私だけに、友達として」
 これがどもる人の話すときのポイントです。
 僕たちはどうしても大勢の人の目を気にします。僕も、1000人を超える聴衆の前で講演をしたこともありますが、やはり怖い。1000人の聴衆を見るのではなく、会場の中のこの人に話そうと焦点を当てます。頷いてくれている人や優しそうな人を探します。その人一人に向かって話します。みんなに向かって話すことはできません。
 教室で教員が子どもに語りかける時もそうでしょう。40人の子どもみんなをボヤーッと見て語るのではなくて、この子、この子とひとりひとり相手を見ながら、その子だけに話しかけるように話すと、他の子も聞くことができます。全体に焦点を合わせて語ったのでは、言葉は子どもに伝わりません。
 ローグは、マイクに向かって話すのではなくて、マイクの向こうにいる私を見て、友達である私に話せと言います。世界の四分の一の人口の人が聞いていると考えると、気が遠くなりますが、友達であるローグになら語れます。その瞬間、ふっと力が抜けて、間をとりながら「重大な、困難に、直面して…」とスピーチを始めるのです。
 ジョージ6世のスピーチは、YouTubeで聴くことができます。ゆっくりと、ゆっくりと語っています。聞き手にはどもっていないように聞こえますが、本人としては、どもっている意識はあったと思います。ブロックの状態にあるのが、絶妙の間となって聞き手には伝わっています。どもった瞬間を、間として生かしているのです。

  劣等性、劣等感、劣等コンプレックス

 最後に、この映画のもう一つの見所、兄と弟の劣等感の葛藤の話をします。
 あの映画を違う角度から観ると、兄と弟の、劣等感の葛藤の映画だと僕は捉えています。兄はハンサムで、有能で、社交的で国民に人気があります。王にふさわしいと誰もが思っています。弟は、吃音のために引っ込み思案になり、消極的で、社交性がありません。兄とは全然違います。弟が兄に対して劣等感をもっていただろうことは誰もが想像できます。しかし、僕は、兄の方が弟に対して強い劣等感をもっていたと思うのです。
 
 劣等性、劣等感、劣等コンプレックスの三つの違いを言ったのは、アドラー心理学です。
 劣等性は、平均値より低いなど、ある程度客観的なものです。しかし、劣等性があるからといって、劣等感があるとは限りません。この人がなぜ劣等感をもっているのか不思議なくらいの人が劣等感をもっていたりします。劣等感は、主観的なものです。

 劣等コンプレックスは、劣等性、劣等感を利用し、口実や言い訳にして人生の課題から逃げることです。人生には、「仕事」、「人間関係」、「愛」という3つの課題があります。仕事は、成人の場合は職業ですが、子どもの場合は、勉強や友達と一生懸命遊ぶこと、スポーツに打ち込むことなども含みます。人間関係は学校、クラス、地域での人間関係です。愛は、人を愛し、家族を作り、子どもを育てることです。
 これを読み解くと、子どもの吃音臨床に展望が出てくると思います。兄は有能だけれど、ある意味軽いです。弟は、吃音の悩みの中から身についてきた、忍耐力、我慢強さ、誠実さがある。兄は人気があるので、何をしても好かれるが、弟は悪いことをしたら相手にされないからでもないでしょうが、誠実、真面目になっていきます。

 みなさんがつきあう、どもる子どもに、真面目、誠実さを感じませんか。悩むということは、誠実だからです。他者に、自分の人生に、誠実でなければあまり人は悩みません。悩むことは悪いことではなくて、その人の誠実さの現れであると言っていいと思うのです。

 兄が弟に強い劣等感をもっていたと分かるシーンがあります。
 王である兄の山荘でのパーティに出席したジョージ6世は、仲がいいからこその苦情を兄に言います。「王たる姿勢で、公務を怠らず、愛人との生活に溺れず、仕事をしてほしい」。すると兄は、「彼女は愛人ではない。結婚するつもりだ。平民は愛があれば結婚ができるのに、なぜ王であればできないのか。お前は、スピーチの練習をしているとの噂を聞いたが、国民にスピーチしたいのか。弟が兄の私を王から引きずり落とそうとしているのか」と、弟のどもりを真似をします。
 弟に対する強い劣等感がなければ、それまでとても仲がよかった兄が、弟の一番嫌がるどもる真似などしません。勤勉性、責任感、誠実さなどの人間性や、王の資質に関して、弟の方がはるかに優れていると、兄は弟に対して密かに、強い劣等感をもっていて、その劣等感が爆発したのです。
 そして、劣等コンプレックスを使ったのは、どもる弟ではなく、人間性で劣ると劣等感をもっていた兄の方でした。弟は、人前に出て行かないとか友達を作らないとか、軽い意味での劣等コンプレックスは使ったけれども、最後の土壇場では使いませんでした。ジョージ6世を演じたコリンファースは、インタビューに応じて、ジョージ6世をとても勇敢な人物だったと語っています。

 「彼自身は自分のことを勇敢だと思っていなかっただろうが、いざとなれば臆することなく恐怖に立ち向かったんだからね。国王になるよう育てられていなかったにもかかわらず、兄が王位を捨てると、黙って王位を継ぎ、決して運命を呪ったりしなかったんだ」
 最後の土壇場で、劣等コンプレックスを使って、人生の課題から逃げたのは兄でした。退任のラジオ放送でもそれはさらに明らかになります。   「私は退任をします。王を退きます。その理由を皆さんはご存知でしょう。国王として重大な責任と義務を果たすのが、愛する女性の助力がなければ私には不可能でした。この決断は難しくはなかった。弟は長く公務の研修、研鑽を積んできました。私が王を辞めたからといって、弟に代わったからといって、国民が一切の不利益を被ることはないでしょう。弟は立派に国王としての仕事をこなしてくれるでしょう」

 兄は、自分よりも弟の方に王の資質があることを知っていた。そして、平和な時代なら自分でも国王としてやっていけるが、第二次世界大戦という大変な国難の中で、国王として責任を全うする実力が自分にはないと知っていた。だから逃げた。
 「王冠を捨て、愛に生きる」なんて、一般受けするかっこいい言い訳を作り、国王は、離婚歴のある女性と結婚できないことを利用して、国王の責任から逃げたのです。
 どもる子どもが、流暢に話せないことに劣等感をもつとしたら、劣等感や自信について子どもと一緒に、考え、話し合うことが必要です。表面的な、運動や勉強ができるなどよりも、信頼や責任感、誠実さの方が、人間の本質的に価値があることを知ってほしい。
 どもる子どもの多くがもっている、まじめさ、優しさ、誠実さ、苦しくても逃げない忍耐力、工夫してサバイバルして生きる力こそ、幸せに生きる力になる。これらをもとに、「吃音否定」の物語から「吃音肯定」の物語に、一緒に変えていくことを、どもる子どもと取り組みたいのです。
 この映画は、脚本家・サイドラーが、自分自身が吃音に苦しんできたこともあって、少しひいき目に弟を見ていたこともあるかもしれません。国民的人気の兄の伝記やエピソードはたくさん残っていますが、弟はあまり関心がもたれず、ほとんど伝記がない地味な王だったようです。
 サイドラーは、長年、資料を調べ、脚本を書く時に、兄の方が弟に対して劣等感をもっていたのではないか、「王冠を捨てた恋」とかっこよく見えてもそうでないのではと感じたのではないでしょうか。少なくとも、映像からは、僕にはそのように感じられました。
 そこに興味があって、脚本家サイドラーと話をしたいとインタビューを配給会社にお願いしましたが、手続きが大変なので断念しました。機会があれば聞きたいと思います。
(2011年10月、第10回静岡県親子わくわくキャンプで、スタッフのことばの教室の担当者、言語聴覚士対象の学習会で講演したものに、少し加筆しました)

 これで英国王のスピーチの講演記録は終わります。
 日曜日まで留守にしますので、少しお休みします。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/08