吃音に悩む人が変わるには

     I have a voice

 英国王のスピーチは、この一言のために作られた映画だといっていいくらいです。今後の吃音臨床でもっとも重要な意味をもつことです。「I have a voice」は、言葉を変えれば、「私は、国王としての責任を全うする」です。この責任感が、開戦スピーチ成功の一番の要因です。
 戴冠式の準備の時、大司教から、ローグがスピーチセラピーの研修経験もセラピストの資格もないことを知らされたジョージ6世は、自分の吃音を治せなかったローグを責めます。
 「お前は研修経験も資格もないが、度胸だけはある。戦争が迫る中、この国にことばなき王を押しつけた。私の家族の幸せを壊した上に、治る見込みのないスター患者を罠に陥れた。ジョージ3世のように狂気の王になる。狂った王、どもりのジョージ。危機の時代に国民を失望させる王」
 このように責められている間に、ローグは戴冠式に使う王座に座ります。それを見たジョージ6世は怒ります。
 「立て、王座に座ってはいかん」
 「ただのイスだ。観光客の落書きもある」
 「戴冠式用のイスだ。私の言うことを聞け、立つんだ」
 「何の権利でそういうことを言う」
 「神の権利だ。私は王だ」
 「あなたは、王になるのは嫌なんだろう。そんな人のことばをなぜ聞く必要がある」 
 「I have a voice」 
 「そうとも、あなたは忍耐強く、誰よりも勇敢だ。りっぱな王になる」

 「I have a voice」、ジョージ6世の凛とした声が響くこのシーンが、この映画のハイライトです。字幕には、「私には王たる声がある」とありますが、公開前の宣伝映像の字幕は、「私には伝えるべき言葉がある」でした。これが吃音の臨床の眼目です。
 流暢に話せることが重要なのではない。どもらないように工夫してしゃべることに意味があるのではありません。その人の話の内容に大切な意味があるなら、どんなにどもっても人はその話を聞きます。でも、どんなに流暢でもその人の話が空疎なら、しゃべればしゃべるほど人は聞きません。

 僕の親友の結婚式の経験です。感動的な結婚式の最後に、新郎の父親の意味のない挨拶が延々と20分以上続きました。聞き手の反応にお構いなしに話は続き、参加者みんながうんざりして、折角の感動の結婚式が台無しでした。

 真実の言葉を語るときは、どもった方がいいと世界的作曲家の武満徹さんが名エッセー「吃音宣言」の中で書いています。詩人の谷川俊太郎さんとの対談で、僕が女性にもてた話をしたときに、「どもる人は、誠実だと誤解されるんだよね。とつとつと話す言葉に真実がある」と言いました。「私はあなたのことが好きだ」と、早口で軽く言われても相手に伝わらない。「す……………好きだ」の方が伝わると言うのです。

 平和な時代の王であれば、「I have a voice」と言う必要はありません。ヒトラーが、イギリスの説得を無視して戦争が始まります。日本の僕たちが考える戦争と、ヨーロッパの人たちが考える戦争とは全然違います。沖縄の人たちが経験していることですが、地続きのヨーロッパでの戦争は、目の前を戦車が通り、人が撃たれて死に、建物が破壊されます。目の前で起こる大変なことを第一次世界大戦で経験しているヨーロッパの人たちが、また、その戦争に再び巻き込まれる。政府としては苦渋の選択です。

 開戦のスピーチは、国王が、国民に説明し、勇気づけ、安心感を与え、みんなでこの困難を耐えようと訴えなければならない、大変重要な言葉です。結婚式のお祝いのスピーチではありません。空疎な「頑張ろう!」なんてことでは国民は納得しません。どれだけの人に影響を与えるかを知り尽くした上での国王としての言葉なのです。
 国王としての立場、責任、地位、役割、それらの中から絞り出された、「I have a voice」です。ローグへの怒りを込めながら、しかし、大いなる決意を込めて、威厳をもっての「I have a voice」。
 本当の王が誕生した重要なシーンです。

    語るべき言葉をもつ

 吃音に劣等感をもち、治したいと悩むどもる人や子どもに伝えたいメッセージは、言葉がどもるか、どもらないかの前に、「あなたには語るべき言葉があるのか」です。
 2000年6月、NHKの『にんげんゆうゆう』という番組にスタジオ出演しました。柿沼郭アナウンサーが、「伊藤さん、最後に、吃音で苦しんできた人として、何か言葉について考えていることはないですか?」との質問に僕は話しました。

 「吃音を否定的に考えて、これまで、すらすらしゃべることに価値があると普通に近づくことばかりを追いかけてきた。でも、どもりながらでも、その人の話を聞きたいと思えば、人はいくらどもっていても聞くだろう。たとえ、立て板に水のようにすらすらしゃべっても、空疎で内容がない話だったら、人は聞かない。どもるどもらないより以前に、あなたには言いたいことがあるか、言うべき内容があるかを、自分たちで問いかけたい。 どうしてもしゃべりたいことがあれば、どもる恥ずかしさや恐ろしさを超えて、人は話していくだろう。そして、それが結果として言語訓練にもなる。どうしてもしゃべりたいという気持ちが出るような、生活の質、充実した生活をいかに送るかが大切で、その中でしゃべりたい内容を育てる。それが大切なんじゃないでしょうか」

 この番組を息子さんが録画して、それを観た落語家の桂文福さんが「吃音に悩んできた同じ仲間として共感しました」と電話を下さいました。以来、仲間としてのつきあいが続いています。落語家生活40周年記念パーティーの場で、特別に僕を吃音の仲間として紹介して下さいました。
 「I have a voice」。国王として、「伝える言葉」があったから、その責任を重いものとして自覚していたから、開戦スピーチができたのです。
 一方、どもる私たちやどもる子どもたちが苦しいのは、このように、重要な、伝えるべき言葉だけではないことも知っておいてほしいことです。

 小学校の健康観察の時の「はい、元気です」や、「おはようございます」など、簡単で、あまり重要ではない言葉が言えないことです。幼稚園で、謝るときには「ごめんなさい」を言うようにと指導され、「ごめんなさい」の「ご」がどもるため言えずに、いじめられていたとの話を聞きました。
 どうしても言わなければいけない言葉ではない、あるいは、言いたいことではない言葉で、多くの人は苦戦しています。作家の重松清さんも「語りたい言葉でどもるのはいいが、どうでもいいような言葉でどもるのは嫌だ」と言っていました。だから、重松さんも僕も、社交辞令の言葉だけが飛び交うパーティーや懇親会、雑談が嫌いです。ジョージ6世もパーティーや社交が苦手でした。

 静岡でのキャンプの話し合いで、「どもりを、別に治したいと思わない」と言った小学4年生の片岡祐介君は、健康観察の時、「か」がどもって言えないので、「か」を言わずに、「たおかゆうすけ、元気です」と言っていると言いました。するとある子は、「おはようございます」の「お」が出ないから、「はようございます」と言っていると、悪びれずに言っていました。子どもたちがつくった『どもりカルタ』に「サバイバル、はい、元気ですの、「はい」をとり」がありました。
 語りたい、語らなければならない言葉は、どんなにどもっても語る。どうでもいいような言葉は、伝わりさえすればいい。このように柔軟に考えることが、吃音と共に生きるということです。つづく

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/08