英国王のスピーチに関しての講演記録です。
映画「英国王のスピーチ」に学ぶ、吃音の取り組み
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
はじめに−当事者研究−
映画『英国王のスピーチ』は、吃音の臨床に役立つ、大きな学びと教訓が詰まっています。
主人公は、ジョージ5世の次男であるヨーク公、後のジョージ6世です。長男は社交性があり、流暢にしゃべり、聡明で国民にも人気があります。弟のヨーク公は、物心ついてから、どもらないでしゃべったことはないと本人が言うほどに、吃音に強い劣等感を持ち、悩んで生きてきました。
この映画は、ローグというオーストラリア人の言語聴覚士と英国王の吃音治療の記録映画とも言えますが、社交的な長男と、引っ込み思案な次男の葛藤の話でもあります。
国王は、クリスマスや、国にとって大事な時にスピーチするのが公務です。次男のヨーク公にも話さなければならない局面が出てきます。
1925年の万国博覧会で、ヨーク公が挨拶で、「・・・」と、どもって言えません。
「・・・」と息が漏れたり、間があったり、しゃべれない。そのスピーチを聞いている国民は、一斉に目をそらし、何が起こったのかと、怪訝な表情で顔を見合わせるところから、映画『英国王のスピーチ』がスタートします。
この静岡キャンプに来る二週間前に、私たちの吃音ショートコースというワークショップがありました。テーマは「当事者研究」で、北海道の精神障害者のコミュニティ「べてるの家」の創設者で、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんが講師として来て下さいました。べてるの家の実践は、精神医療の世界だけでなく、ひとつの社会的現象として様々な分野から注目されています。一人でする当事者研究もありますが、ひとりでは、堂々巡りになったり、ひとりよがりになる危険性があります。仲間や臨床家など、第三者と研究することが、より効果的です。
小説でも映画でも、読者、観る人の数と同数の感想、受け止め方があります。王室に関心ある人、第二次世界大戦当時の歴史に関心ある人、家族のあり方に関心のある人で、「英国王のスピーチ」はさまざまな研究ができます。映画「英国王のスピーチ」で描かれたジョージ6世を、吃音に深く悩み、吃音に長年取り組んできた伊藤伸二という第三者の目を通して「研究」します。
臨床家における対等性
ヨーク公を愛称「バ−ティ」と呼ぶ
まず、セラピストとクライエントの関係です。 ことばの教室の教師や言語聴覚士とどもる人、どもる子どもとの関係です。セラピーが成功した要因のひとつが、「対等性」です。
私はこれまで、教育や、対人援助の仕事にかかわる人に、向き合う相手との「対等性」の重要性を言い続けてきました。特に、原因もわからず、治療法もない吃音は、一緒に悩み、試行錯誤を繰り返さざるを得ません。共に取り組むという意味で、対等性が何よりも重要です。
ジョージ5世の次男、ヨーク公には、これまでにたくさんのセラピストが治療しますが、すべて失敗に終わります。そのために本人はあきらめ、もう吃音治療はしたくないと言います。しかし、妻のエリザベスはあきらめません。夫に内緒でいろいろと探し回り、新聞広告で見た「言語障害専門」という看板のある、ライオネル・ローグの治療室に来ます。
「あらゆる医者がだめでした。本人は希望を失っています。人前で話す仕事なので、どうしても治したいのです」
「それなら転職をしたらどうですか」
「それは無理です。個人的なことは聞かずに治療してほしい、私のところに来てほしい」
「だめです。私の治療室に通って下さい。治療に大切なのは、信頼と対等な立場です」
エリザベスが、クライエントがヨーク公だと身分を明かしても、ローグはこれまでの態度を変えることなく、対等性にこだわります。ヨーク公と直接対面した時、ヨーク公が「ドクター」と呼ぶのを遮り、「ライオネル」と呼んでほしいと言い、ヨーク公を「殿下や公爵」ではなく、家族しか呼ばない愛称「バ−ティ」と呼ぶと宣言します。
ヨーク公は、「対等だったらここに来ない、家族は誰も吃音を気にもとめない」と抵抗しますが、「私の城では私のルールに従っていただきます」と譲りません。イギリス人のセラピストなら、王室の人間に対等を主張することはありえません。オーストラリア人だからかもしれませんが、それにしても、あの時代としてはすごいことです。二人にとって、この対等な関係がとても大きな意味をもちました。
ナラティヴ・アプローチ
対等の関係であることは、どんな臨床にも必要だと私は思いますが、それにいち早く気がついたのが、家族療法の分野です。家族療法の世界では近年、ナラティヴ・アプローチが注目を集めています。その中で言われるのが「対等性」です。なぜ対等性が言われるのでしょうか。
ナラティヴとは、「物語」、「語り」の意味ですが、人はそれぞれ自分の物語を作ります。自分についての物語は、本人が誰よりも知っていることへ敬意です。だから本人に教えてもらう、「無知」の姿勢を貫きます。ここに対等性が出てきます。
本人が語る物語がネガティヴであれば、その物語に捉われて悩みます。ジョージ6世は、「どもりは劣ったもの、悪いもの、恥ずかしいもの」の物語を繰り返し語ります。その物語には伏線があります。弟はてんかんでした。その弟は世間から隠されて13歳でひっそりと亡くなります。弟の話は王室ではタブーです。その弟に優しかったのが、兄であるヨーク公です。
彼はそこで、王室は自分の愛する弟を障害があるからといって隠すのだ、という物語に出会います。そして、王になるような人間は、吃音という言語障害をもっていては駄目だとする物語を強化していきます。
世間一般も、同じように、どもる人間は王にふさわしくないという物語をもっています。自分が語る物語と、世間一般の物語によって、ヨーク公は、どもる人間は国王になるべきではないとの物語をもっています。ヨーク公は次男なので、長男が生きている限り、彼が国王になることはないのですが、吃音の国王は考えられないのです。
この、自分を不幸にする物語に、新しい物語を、セラピストと一緒に作っていくのがナラティヴ・アプローチです。自分の否定的な物語の上に、肯定的な、自分がよりよく生きていくための物語を作っていく。「英国王のスピーチ」は、吃音治療の物語ではありますが、結果として、このナラティヴ・アプローチになっていたと私は思います。
ヨーク公は、ヨーロッパ中から治療者を探し、治療を受け続けても結局改善しません。そして、賛否両論のある異端のセラピスト、ライオネル・ローグに出会うのです。
ローグの献身的な、集中的な治療でも吃音は治りも、改善もしません。にもかかわらず、目標だった第二次世界大戦の国民に向けての開戦スピーチは成功するのです。吃音治療の結果ではなくて、ジョージ6世が自分の物語を変えていくことができた結果です。そのために「対等性」が意味をもちます。人に言えない悩みを話し、それに共感して聞いてくれる友達がいた。吃音に悩む人間にとって、治療者ではなく、友人が必要なのです。
映画のラストに、ジョージ6世は、ローグを生涯の友として考えていたとあります。吃音が治れば、あるいはある程度改善されれば、それで治療者との関係が切れます。しかし、治らない、治せない吃音の場合は、この対等の友人であることが、何よりも必要だったのです。
映画のエンディングにテロップが流れます。
「1944年、ジョージ6世はローグに、騎士団の勲章の中で、君主個人への奉仕によって授与される唯一の、ロイヤル・ヴィクトリア勲章を授与した。戦時下のスピーチには毎回ローグが立ち会い、ジョージ6世は、侵略に対する抵抗運動のシンボルとなった。ローグとバーティは生涯にわたり、よき友であった」
セラピストも劣等感や弱点のある存在
ローグがオロオロする場面があります。ヨーク公の時代、国王になる不安を爆発させ、ローグと決裂し、セラピーをやめてしまいます。その後、国王になってやはりローグが必要になり治療の再開を頼みに、妻が留守のはずの自宅に国王夫婦が尋ねた時です。その時、思いがけずにローグの妻が帰ってきます。妻に内緒でセラピーをしていたローグはあわてます。国王が、自分の家にいたら誰もが驚くでしょう。妻とエリザベスが出会ってしまい、話すのをドア越しに聞きながら、国王を紹介するタイミングでオロオロと困っているローグに「君は、随分臆病だな。さあ、行きたまえ」と、ドアを開けます。ジョージ6世はそこで初めて、ローグも、臆病な、気の弱い人間だと、自分に近いものを感じます。
ローグが自分の弱さを見せたことで、ジョージ6世は、ピーンと背中を張ってドアを開けます。このシーンのコリンファースの演技は見事です。ここで、本当の意味で、対等を感じて信頼できたのだと思います。
言語聴覚士の専門学校で講義をしてると、伊藤さんは吃音だからそんなことが言えるけれども、吃音の経験もない、経験の浅い人間にそんなことは言えないとよく言われます。人間、誰もが何がしかの挫折体験、喪失体験があります。受験の失敗、失恋、祖母の死などを経験して生きています。そのような誰もがもつ経験を十分に生きれば、吃音の経験のあるなしは関係がないと、学生には言います。弱いからこそ、劣等感があるからこそ、自覚してそれに向き合えば、セラピストとしていい仕事ができるだろうと思います。
私は、死に直面する心臓病で二十日以上入院しました。そのつらい時に、活発で、はいはいと明るすぎる看護師さんよりも、「大丈夫?」とほほえんで声をかけてくれる優しい看護師さんの方にほっとしました。自分が弱って困っているときに、堂々と笑う豪快なカウンセラーに相談に行く気には私はなりません。
自分には、大したことはできないけれども、せめてあなたの話だけはしっかり聴いて、一緒に泣くことならできそうかなあというような人のところに私は行きます。入院を三回経験した、弱った人間としては、そう思います。
私は、福祉系の大学でソーシャルワーク演習を担当しています。そこでの対人援助者の講義や、教員の研修で、私はヘレン・ケラーとサリバンの話をよくします。
奇跡とも言える教育が成功したのは、ヘレンがサリバン先生を信頼する前に、まずサリバン先生がヘレンを信頼したからです。ヘレンはきっと人間としてことばを獲得し、成長するという信頼があった。また、目も見えない耳も聴こえないで生きてきたヘレンへの尊敬があったと思います。
ローグも、相手に対する尊敬と、この人はきっと変わる、いい国王になるという信頼があったから、それに応えてジョージ6世もローグを信頼したのです。変わるというのは、いわゆる一般的に思われているような「変わる」ではありません。吃音そのものではなく、彼の思考や行動や感情は変わると、信頼をもっていた。
どもらずに堂々とスピーチすることが成功ではない。不安をもちながら、おどおどしながら、嫌だ嫌だと思いながら、そしてどもりながら、なんとかスピーチをやり遂げたことが成功です。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/06/05