毎週開催される大阪吃音教室。日曜日に開かれていた例会を金曜日に変えてもらったのは、第一回吃音世界大会の翌年の、1987年でした。京都で開いたその世界大会で、世界の参加者は、伊藤の理念は理解できるが、それをセルフヘルプグループのミーティングや活動の中でどう取り組んだらいいのか、また、子どもを指導する臨床家が、何を、どのように取り組めば「吃音と共に生きる」につながるのか、具体的なプログラムを示すべきだとの指摘を受けたからです。こうして始まったのが、これまでの話し合うだけの例会とは、まったく違う、学び合うことを中心にした、「大阪吃音教室」でした。交流分析や論理療法、森田療法など、僕が学んできたことを中心に、講座を組み立てました。最初の1年間だけはモデルを示す意味で、僕が全ての講座を担当しました。その後、みんなが見よう見まねで担当するようになり、担当するために、しっかり勉強するようになりました。現在、世話人が30人いて、その人たちが担当するために、僕の出番は一年で3回程度になりました。ちょっと寂しいけれどうれしいことです。
数少ない僕の担当の「吃音基礎知識」。おもしろかったと藤岡さんがテープ起こしをし、まとめて下さった報告も、今回が最終となりました。藤岡さんがこうしてまとめて下さらなかったら、この報告はなかったことになります。僕の発言もなかったことになります。仲間の力で、こうして紹介できること、僕にとってこの上ない喜びです。グループで話し合い、僕に質問をぶつけてくれた仲間にも感謝です。
この報告を読み返しながら、僕はつくづく、質問を受けるのが好きで、質問に答えるときが、僕のコンピューターが一番機能を発揮するのだと思いました。今回で最終ですが、これまでの僕の講演記録など、見つけ出して、またいろいろと紹介したいと思います。
伊藤に出された質問
1.吃音と進化論
2.吃音は遺伝するのか
3.幸せに生きるには
4.相手によって喋りやすかったり喋りにくかったりするのはなぜか
5.なぜどもらない人は、どもる人を笑うのか
6.どもりは治るのか
7.男女比のなぞ
8.「環境調整」とは何ですか?
9.吃音を隠して生きる人、認めて生きる人の違いとは
9.「吃音を隠して生きる人、認めて生きる人の違い」
【参加者】この大阪吃音教室に来ている人のようにどもりを隠さずに明るく生きている人もいますし、その一方でどもりをずっと隠して生きている人もいます。その違いはなんでしょうか?
【伊藤】どもりを隠し続けている人との違い? どこがどう違うと思いますか?
【参加者】考え方が違う。
【伊藤】
確かに考え方が違うでしょうね。吃音に対する考え方に正解というものはないし、隠し続けて生きられるなら隠し続けて生きていけばいいと思います。他人がとやかく言う筋合いの問題では全然ないですしね。でもあえて違いについて考えるとしたら、隠し続けることに疲れた人間が「もう隠すのは嫌だ」と思うところから、どもりを認めざるを得なくなることはあるでしょうね。
「隠し続けて生きることの危うさ」。この表現をしたのは、昔NHKのセルフヘルプグループを扱った番組「週刊ボランティア」に、僕と一緒にスタジオ出演した、筋萎縮無力症という難病の浅野さんが「隠し続けて生きることの危うさ」という表現をしていました。浅野さんは、隠して生きることの切なさ、つらさ、苦しさを持ちながら、ずっと難病であることを隠して生きていましたが、同じように悩む人と出会って、隠し続けることに「もう嫌だ」と思った時、難病をオープンにしたら、すごく楽になり、生きるエネルギーが沸いてきて、セルフヘルプグループをつくり、エネルギッシユに活動をされていました。「隠して生きてきた」のとは、全く違う人生が開けていきました。
吃音の場合も、隠し続けて生きることのしんどさに耐えられる人、そして、その生き方がいいと言う人は、吃音を隠し続けて生きたらいいと思います。
僕らのような凡人には隠し続けて生きることはすごく難しい。小学2年生から21歳まで、どもりを隠し、話すことから逃げて生きてきました。その人生に疲れたとき、「どもりは必ず治る」と宣伝する「東京正生学院」に出会えたことはラッキーでした。必死で1か月、吃音を治す努力をしたけれど、当時来ていた、300人全員が治らなかった。あれだけ「治したい」と思い、あこがれていた「どもりが治る」だったけれど、治らない現実に向き合って、もう隠すことはやめようと思いました。僕は21歳で方向転換ができてよかったと思っています。早いうちに降参した方が良いと思います。結局僕たち凡人には、たいした能力もないし、人より自信がもてる能力もないし、隠し通すだけの気力もない。そういう僕らが救われる道となると、「どもりを認めて生きる」というのが、一番楽な生き方だと思います。
どもる僕たちが、何をよりどころにして生きていくかというと「この社会を信じる」ことしかないと思います。「どもっているとみんなが変な顔をするに違いない」「どもっていると劣った人間と思われるに違いない」という、社会に対しての敵対心や、「みんなは自分の敵だ」という気持ちを捨てて、社会を信じて生きる。他者を信じて生きる。時に裏切られることがあり、信じられないと思うときもあるだろうけれど、それでも信じる。こちらが目の前の相手を信じ、相手を信頼すると、相手も信頼してくれる可能性があります。
相手が信じることができる人、信頼できる人でないと、自分は相手を信じないとなると、それはいつになるか分からない。今日からできることは、自分からまず、相手を信じることです。相手を信じて、素直にどもって生きる。どもりながらそれを晒して生きることは、実はとても楽なんですよね。
これを、浄土宗の開祖法然の「ただ信じて、念仏を称える」で、誰もができる易行(いぎょう)といいます。どもりを治してから相手とつきあうでは、いつその日がくるか分からない。発声練習して常に吃音をコントロールして、どもりを隠して生きて、さらに自分のやりたいこともして、それで楽しい人生が送れる人間なら、そうすればいいと思います。それは誰にでもできることではなく、仏教の悟りへの道で言えば、難行苦行です。凡人である僕らにはできない。だったらもうそのままを認めて生きるしかない。これの方がずっと楽な道です。
鎌倉仏教の前の平安仏教の「修行だ、修行だ、修行だ」と「難行苦行」の旧仏教に対して、「そんなことでは人は救われない。全ての人が救われる易行でないと意味がない」と言って、「ただ、信じて南無阿弥陀と称えるだけでいい」と言ったのが法然、親鸞の考え方です。僕はどもりを治すための努力は続けられないし、隠し通すだけの気力も、隠しても社会から認められるだけの特別の能力もありません。
僕は社会を信じて生きたいです。確かに嫌な人間もいるし、気分が悪いこともいっぱいあるかもしれないけど、アドラー心理学で言う「共同体感覚」を持って「社会はそんなに悪い世界ではない」と信じてどもりながら生きる。その中で考え方が変わるし、どもりそのものも自然に変わるのであれば変わると言えるんじゃないでしょうか。どもりは本当にわからない、神秘に満ち満ちています。こういう神秘なものを持っているということを、僕は、誇りに思います。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/26