大阪吃音教室2016年4月15日(金)、どもりって何だろう(吃音基礎知識)を僕が担当しました。その講座がおもしろかったと大阪スタタリングプロジェクトの機関紙「新生」に掲載するために。テープ起こしがされてまとまったものになりました。紙面の都合で全文は掲載できないので、このブログで紹介します。テープ起こしをし、編集して下さった仲間の藤岡 千恵さんに感謝します。9つ質問があったのですが、まず一つ目です。
どもる僕たちがよりよく生きていくために
報告藤岡千恵
僕は21歳まで深刻にどもりに悩んでいました。深刻に悩んでいたけれども、真剣に吃音に向き合っていなかった。吃音に対する知識も全くなかった。だから僕はあれだけ悩んでいたんだと考えます。そして21歳からの僕はどもりの知識や、情報、知恵を学ぶ歴史であったように思います。その過程からすると「吃音に関して、どんなことを知っていたら、苦しんでいる人間が方向転換ができて、新たな道を歩み始めることができるのか」。そういう観点からどもりの知識を整理したいと思います。
僕が一方的に話しても意味もないので、みなさんから質問を出してほしいです。今回は「どもる僕たちが、より良く生きていくためにはどんな情報を押さえておけばいいのか」ということをまずはグループで話し合ってみてください。
(3つのグループに分かれて話し合う。グループで出た質問を出す)
どもる僕たちがより良く生きていくために、どんな情報を知りたいか
3つのグループに分かれて話し合い、グループの代表者が伊藤さんに質問しました。
伊藤さんに出された質問
1.吃音と進化論
2.吃音は遺伝するのか
3.幸せに生きるには
4.相手によって喋りやすかったり喋りにくかったりするのはなぜか
5.なぜどもらない人は、どもる人を笑うのか
6.どもりは治るのか
7.男女比のなぞ
8.「環境調整」とは何ですか?
9.吃音を隠して生きる人、認めて生きる人の違いとは
質問1 吃音と進化論
人類の歴史の中で「進化論」がありますが、「進化の過程において不利な要素を持っているものがどんどん淘汰されてきた」の考え方をした時に、吃音という、一見デメリットが多そうなものが今もなお生き残っている意味とは何でしょうか?
【伊藤】人間が社会生活を営むようになり、コミュニケーションを必要とするようになった時点から、すでに吃音が始まっています。現在残っている一番古い有名な記録でいうと、紀元前300年代の政治家デモステネスです。デモステネスは神経質で体も弱い、そしてどもりだったのですが、それらを何とか克服します。どもりについては小石を口に含んで発声練習をする。荒波に向かって、波の音に負けない大きな声を出す訓練をします。その結果かどうかは疑問ですが、大雄弁家になった。どもる人がデモステネスのように雄弁家になりたいとの強い思いを、「デモステネスコンプレックス」と言います。
その時代からすでに吃音の悩みがあり、そして現在まで途切れることなく続いている。どこの国でも人口の1パーセント程度存在し、男性、女性の割合も男性が5倍以上と、その比率はどこの国でも同じです、男尊女卑の国であっても、男女が対等な国であっても、アフリカでもスエーデンでもアメリカでも同じです。進化論的に考えれば、「人類が生きていくのに1パーセント程度はどもる人間がいた方がいいのではないか」と考えることもできますね。
機関銃のように勢いよく喋る人間やおしゃべりの人ばかりだとやかましくてしょうがないと思います。オドオドしながら、慎重に言葉を選びながら、喋る人間がいてもいい。寡黙な、無口な人も良い。先週この大阪吃音教室でみんなと一緒に観たドキュメンタリー映画「The Way We Talk」の中で、監督であり主人公でもあるマイケルの親友が「マイケルは言葉を選んで大切なことだけを喋っている。他の人とはちょっと違う。マイケルのそういう喋り方が好きなんだ」と言っていましたね。僕も自分自身が話す場面になればおしゃべりですが、口数の少ない、静かな人が好きです。寡黙の人といわれた俳優の高倉健がすきなのも、そのせいかもしれません。逡巡しながら、戸惑いながら、恥ずかしいと思いながら、それでも、ことばに詰まりながら喋る人間が、人間社会には必要なんじゃないか。僕は、そういう風に考えてもいいと思います。
今は「何でもスピーディーに」「効率的に」が優先される社会です。その中で「社会には、こういうひと握りの人間が必要なんだよ」という警告のような気がします。自分たちをそういう存在であると位置づけたら、豊かに生きていられそうな気がします。
僕は昔、「どもり方を磨く」という表現を使っていました。そのタイトルの文章も書きました。どもりを治す、改善するのではなくて、どもりながら喋るなかで、どもり方のバージョンを豊かに持ち、自分のどもり方のスタイルを作っていく。そうすれば、すごく爽やかなどもりになるんじゃないかと思います。難発(ブロック)の状態を「間」として、話すと、映画「英国王のスピーチ」のラストでの開戦のスピーチのように、厳粛な、人に訴えるスピーチになります。開戦のスピーチは、ジョージ6世がどもらないように、ゆっくりと話そうとしたことが、ブロックになっても、それが絶妙の「間」になって国民に戦争という大変な負担を掛けることに、申し訳ない思いと、それでもそれを選択しなければならない苦渋の思いを伝える、素晴らしいスピーチになりました。ジョージ6世はただ必死に話しただけですが。連発(繰り返し)の場合も磨けば、明るさ、軽快さ、人柄の良さの表現になります。
「スタタリング・ナウ」3月号の一面にも書きましたが、映画でマイケルがどもっている、連発の”どもり音(おん)”が、僕にとっては、とても心地よいバッググラウンドミュージックのように聞こえてきました。
どもりを否定的に考えていたら、人がどもっている”どもり音”なんて聞きたくない。だけど、どもりを認めてしまって、それもひとつの喋り方だと思ったらどうでしょうか。ゆっくりしたしゃべり方、早口もあり、訥々した喋り方もある。どもりも、いろんな喋り方があるうちのひとつの”喋り方”と考えたら、連発をしているマイケルの喋り方も心地よく響きます。
進化論から考えても、どもりはこの人間世界から無くならないと思うし、無くしてはいけないと思います。どもりに今現在すごく悩んでいる人には申し訳ないですが、「どもり保存会」を作ってもいいと思うくらいです。ここにいる僕も、皆さんも、悩んでいた時には、今の僕の発言は不謹慎だし、とても受け入れがたいときこえるでしょう。しかし、ここにいる皆さんには、共感できることもあるのではないでしょうか。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/05/18