今から神戸に出かけます。今年で33回めの吃音相談会だそうです。毎年のことなので、今年はどんな話をしようかといつも考えます。やはり、毎回違う話をしたいという思いはあります。僕がいいたいことはたった一つで、「どもりを否定しなければ、どもりと共に豊かに生きることはできる」ですが、話の切り口は毎年違います。今年は、「ジャジメントとアセスメント」について話そうと思っていますが、これもあくまでも計画で、参加者の希望や、状況で変わってきます。予めレジメなどは用意しないので、話しながら、どうすすんでいくのかは、自分自身がさっぱり分かりません。その方が、僕自身がたのしいのです。まったく考えてもいなかったことが、話の中ででてくることもあり、その発見を楽しんでいます。
ありがたいことに、神戸スタタリングプロジェクトの伊藤照良会長が、メモをもとに会報にいつもまとめてくれています。今回、まとめるに値する話ができるか、予想はまったくできませんが、なるようにしんならないのです。
昨年の分を送って下さったので、紹介します。
レリジエンスを育てる 〜吃音相談会〜
講師:伊藤伸二日本吃音臨床研究会代表
レジリエンスということばは、精神医療・心理学の分野で使われています。日本では、東日本大震災を契機に、レジリエンスということばが新聞に出されました。震災で、経済や町やいろんなものが壊れて、そこから回復していくときにも使われています。
本来は、物理学の用語で、弾力性とか回復力と訳されます。たとえば、ボールを押すとへこみますが、離したら跳ね返ります。ぐっと圧力がかかるものが、ストレスで、そのストレスに対してポンとはね返す力がレジリエンスです。
これまでは精神的な強さ(強くあれ)が長年言われてきました。でも人間は、そんなに強くありません。強さの研究はずっと昔からなされてきましたが、強さだけでは、なんともなりません。堅くて強い樹は、何かの拍子でポキッと折れるけれど、柳に雪折れなしと言われるように、しなやかさの方が強いのではないでしょうか。
これは、吃音にとって、ものすごく役に立つ考え方だと思います。
レジリエンスということばを知らない前から、僕たちは、レジリエンスのことをずっと考えてきたように思いました。
1965年。50年前です、僕はどもりに悩んでいて“どもりが治らないと僕の人生はない”“どもっている僕は、社会人として生きていけない”と思い込んでいました。
当時大学一年生でした。近い将来、どもりの僕が仕事をしているイメージが全く想像できませんでした。小学、中学、高校とみじめな生活を送ってきていました。電話も、音読も、発表もできない、こんな僕は「社会人として生きていけるはずがない」と思っていました。自分がそうだったので、どもる人はみんな僕のように苦しみ悩み、将来、仕事につけないのではないかとしか思えませんでした。
東京正生学院というどもりを治す学校に行きました。そこには300人くらいの人が来ていました。たくさんのどもる人に出会ってみると、僕以上に悩んでいる人も中にはいましたけれど、どもりながらかなり元気で生きている人たちがいっぱいいました。
小、中学校時代に辛かったと言うと「楽しかった」「高校時代はよかった。いい友だちがいた」という人がいました。“本当かなあ”と、自分の苦しかった体験を思うと、すぐには信じられませんでしたが、それでも、いい友だち、いい先生がいたという話がうらやましく、同じようにどもっていても、ずいぶん違うなあと思いました。
当時僕は大学1年生で、社会人として生きていけるかという不安を持っていました。 そこに来ている人たちは、夏休みを利用して、1週間や10日と短期に来ている人たちがほとんどでした。どもりに悩んでいるから、治したいと思って来ているには違いませんが、地元に帰れば、みんな仕事に就いていました。
どもりであれば仕事に就けないと思っていたのが、話を聞いてみれば、中には先生をしている人がいたり、お坊さんもいたりして、僕には想像できないような話すことが多い、話さなければならない仕事に就いていた人がいました。これは僕にとっては、新しい発見でした。
一人で悩んでいたら、悩みの中のどうどう巡りになっていて“どもって失敗した”→“だから、〜しない”→“〜しないから、経験がないから、何かをする時に失敗する”という負のスパイラルに入ってしまいます。
当時の僕にはどもりながら仕事に就いてちゃんと生きていく、そんなことが想像できませんでした。でも、そういう人に出会ったときに、僕は「どもりの僕でも生きていけるかもしれない」と思いました。300人くらい来ていた人たちは、特別な能力のあるスーパーヒーローではないでしょう。それなら、その人たちにできて、僕にできないことはないだろうと思えました。
僕は小学校2年生からずっとどもりに悩み、暗黒の時代を生きてきました。友だちもいない、勉強もしない、社会的にある意味「引きこもりの状態」で生きてきました。
でも、この21歳の時からがらりと変わって、今も、どもることはかなりあるけれども、どもりに悩むことは全くなくなりました。
僕は21歳から、変われました。けれど、変われない人もいます。
僕は、東京正生学院で1ヶ月間、治療を受けて、治らなかったので、そこで、きっぱりとあきらめた。ところが、あきらめきれずに“ここではだめかもしれないけれど、他の所なら治るかもしれない”“もうちょっとがんばったら治ったんじゃないか”と、ずっと治すということに対して、あきらめきれない人はいっぱいいます。
この個人差は何だろうと、ずっと考えてきました。
そこで、最近出会った「レジリエンス」の概念は、これまで僕が、どうしてこの個人差を説明ができるか考えあぐねていたのを、ぱっと解決してくれました。レジリエンスで「吃音と共に生きる」ことが説明できると思いました。レジリエンスは、回復力、弾力性と訳されますが、強さというより、しなやかさです。
これまで、何かの問題や、欠点、病気などがあると、そのだめな部分だけを調べて、だめな部分をなんとか治そう、克服しようとしてきました。
治るもの、治せるものなら、治っていいし、治したらいいと思うけれど、世の中には、治せない、治らないものはたくさんあります。
そういう治せない、治らないものに「これさえ治れば幸せになれるのに」と考えてしまうと、治せる時代がいつくるのか?治せなかったら、治らなかったら、その人は不本位なままとなります。
そういうふうにマイナスのものから考える方から入る精神医学、心理学、教育学はもう破綻をしています。治すという考え方は常識ではなくなってきました。
それよりも、違う角度から、考えていこうというのが、レジリエンスです。
ことばを変えれば、この人はこんなに苦しい状況にありながら、どうしてこんなに元気で生きていけるのだろう、これだけの困難な状況をどうして乗り越えられたのだろう、こういうプラスの側面から、見ていこうとしていくのが、今後のひとつのありかたとしてあると思います。 (つづく)
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/04/24