山内久さん(やまのうち・ひさし=脚本家)が9月29日、老衰で死去、90歳。お別れの会は7日午後6時と8日午前9時30分から東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は養子の脚本家渡辺千明さん。
「幕末太陽伝」(川島雄三監督らとの共同、1957年)や「豚と軍艦」(61年)など多くの映画脚本を手がけた。66年にはテレビの連続ドラマ「若者たち」の原作・脚本を担当。5人きょうだいが様々な問題を乗り越えて懸命に生きる姿は、主題歌のヒットもあって茶の間の人気を博した。翌年映画化され、毎日映画コンクール脚本賞を受けた。
山内久さんが亡くなりました。
山内さんとはたくさんの思い出があります。90歳になっておられていたのですが、僕が山内さんと出会ったのは、48年も前のことです。映画「若者たち」を僕たちが全国にさきがけて上演してからのつきあいで、言友会創立5周年では「若者の明日を築くために」のシンポジウムに来て下さいました。その後も、僕たちの会合に来て下さり、公開対談もしました。
山内さんのご自宅、逗子市山の根のご自宅にも遊びにゆくなど、交流がありました。映画好きの僕は、とても幸せな時間を過ごすことができました。
その後も、僕の吃音に対する考えにとても共感して下さり、いつも励まして下さっていました。世界大会の開催の時も支援をして下さり、いつもいただく、独特の字体のメッセージを、しばらく保管していたほどでした。
「いつも、ユーモアを忘れずに」が口癖でした。
「吃音を治す、改善する」の立場の人との、僕の孤立した、悲壮な戦いに常に思いをかけて下さり、応援してくださっていました。僕の気負った姿に危ういものを感じたのか、よく「ユーモアを忘れず、おおらかに」と書かれていました。いつの間にか年賀状のやりとりはなくなっていましたが、山内さんの、戦争への思いや、僕たちの活動への思いは、つねに僕の胸の中にありました。
9月中旬、信州蓼科高原に遊びに行ったとき、小津安二郎監督が、晩年仕事場にしていた民家にいきました。その資料館で、このあたりに山荘をかまえる映画人のことが紹介されており、その一人に「山内久」の名前があり、とても懐かしく、今、どうしておられるかと、久しぶりに思い出していたところでした。
もう一度、お会いしたかった。また、僕のぐちを聞いて欲しかったと、今になって思います。
「幕末太陽伝」や「豚と軍艦」「聖職の碑」「ああ野麦峠」「私が捨てた女」など、DVDがあるので、もう一度みたいと思います。
『吃音者宣言』(たいまつ社)の本の中に書いた、「若者たち」について書いた文章を紹介し、山内さんのご冥福をお祈りします。
映画「若者たち」のこと
事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。
伊藤伸二編著 『吃音者宣言−言友会運動10年』(たいまつ社・1976年) P93〜P94
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/01