また,吃音の夏がすぐやってきます。
足を骨折して、スケジュールが変更されたために、6月は大忙しの1か月でした。二つの言語聴覚士の専門学校の講義が終わり、先週の週末は8月の講習会のための合宿でした。その時の様子はまた報告します。明日から国立特別支援教育総合研究所の一日講義のために、神奈川に向かい、7月には沖縄の専門学校の講義と、講演会、吃音親子サマーキャンプの演劇の合宿、そして、吃音講習会、吃音親子サマーキャンプへと続きます。楽しい、うれしい、吃音ロードです。骨折の後遺症も一段落しましたので、これからは、このブログもできるだけ更新して行きたいと思います。

 とりあえず、僕たちのニュースレター「スタタリングナウ」の一面記事の紹介を継続していきます。今回は、以前は吃音親子ふれあいスクールと呼んでいた時代の記事です。


    吃音親子ふれあいスクール  
 スタタリングナウ NO.5 1994.12.28

  
 「吃音は治らない。したがって、臨床家としては、何もすることはない」
 「どもる子どもに治療的試みをすることは百害あって一利もない。だから何もしないほうがよい」

 いわゆる言語障害の専門家から、こう言われたことばの教室の担当者がいる。その方から「ことばの教室でどもる子どもをどう指導すればよいか?」との切実な質問を受けた。
 直接、間接にこれらの声はよく耳にするが、それらの方々に、私たちの吃音親子ふれあいスクールに参加していただきたいとお勧めしたい。

 「吃音は必ず治る」として、いたずらに吃音治療に明け暮れた頃から比べれば、吃音が治りにくいものであるとの認識が定着したのは前進には違いない。しかし、だからと言って「何もできない、むしろ何もしないほうがよい」とは、それが、言語障害の専門家から出たことばだけに残念でならない。このように言われるようになった責任の一端は私たちにもあるのかもしれない。

 いわゆる吃音症状にのみ焦点をあてた吃音治療の弊害を訴え、《吃音を治す努力の否定》の問題提起をしたのは、私たちだったからだ。吃音受容がまず大切だと訴えたかったのだが、《治す努力の否定》のことばだけが一人歩きしてしまった。

 問題提起した私たちは、治す努力に変わる努力の方向を、《吃音とつきあう》立場で模索し続けてきた。大阪吃音教室の、『吃音とつきあう吃音講座』は毎週金曜日の夜2時間、一回ごとに違うテーマで、年間40回以上続く。それだけ取り組まなければならないことが多いということだ。その講座にほぼ毎回出席し、真剣に取り組んで初めて、《吃音とつきあう》考えが分かり、日常生活に生かせるようになったと言うどもる人は多い。

 《吃音と上手くつきあう》ことはそんなに容易くはない。何もしないで、放っておくだけでは、何の変化も起こらない。大阪吃音教室8年の活動の中で、プログラムは改良に改良が続けられてきた。その成果をどもる子どもにも生かしたいと考えたのが、吃音親子ふれあいスクールで、それも今年で5回目となった。

 楽しい、リラックスした雰囲気でスクールは進行するが、時には緊張する場面もある。他者の前で自分の問題を、自分のことばで話すことは最初は緊張する。しかし、どもっても受け入れられ、真剣に話を聞いてもらえるという安心感の中で、子ども達は実によく話す。また、どもる子にとって、大勢の人前で演じる演劇は最も苦手とすることだが、最初は尻込みした子どもも、仲間やスタッフに励まされ、ほとんどの子どもが最後には喜んでこのプログラムに加わる。

 かなりハードな練習で何度も何度も泣きそうになりながら、このスクールで一番楽しかうたのは演劇だったと最後に感想を言った小学6年の男子。
 セリフも殆ど暗記していたのに、つっかえつっかえ、時にはひどくどもりながら、表情豊かに演じ切り、舞台が終わっての挨拶の時、とても満足そうな顔をしていた小学4年の女子。
 
 私たちは、少しでも楽に話せるようにと、ことばそのものへのアプローチも重視しているが、からだとことばのレッスンによって、子どもの声は見違えるように出始める。ことばの問題ひとつとってもアプローチしなければならないことは多い。

 今回私たちのスクールに、ことばの教室の先生が何人か参加して下さった。
 <何もできない、何もしてはいけない>ではなく、<しなければならないことはたくさんある>ことを実感していただけたのではないか。このように私たちのプログラムに参加していただくことで、《吃音を治す努力の否定》の問題提起への誤解が少しでも取り除かれればうれしい。(1994.12.28)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/06/22