今僕は8月の吃音講習会「どもる子どものレジリエンスを育てる」の準備のために、「レジリエンス」関係の本を読み進めています。レジリエンスとは、これからこのブログで何度もでてくるキーワードのひとつですが、レジリエンスとは、もともとは物理学の用語で、「回復力」「弾力性」という意味ですが、その定義も、おいおい詳しく書いていくとして、とりあえずは、「逆境を、しなやかな回復力で生き抜く力」と使っておきましょう。

 同じような困難な状況にありながら、ある人はその状況に負け、つらい生活を余儀なくされます。ある人は、生き延びていきます。その力は、本人の持つ力と、環境による力があります。
 今回スタタリングナウの紹介は3号ですが、子どものレジリエンスを引き出すためには、子どもの表現を押さえつけないまわりの大人の、社会の環境が必要です。そのひとつが、こどもの意見表明権をみとめる、親、教師など周りの大人の態度にあると思います。
 1994年にかいたものですが、そのまま紹介します。スタタリングナウの 1号 2号と合わせてお読み下さい。
 スタタリングナウは僕の巻頭言に続く特集があり、この文だけではわかりにくいかもしれませんが。

 「スタタリングナウ  1994.9.8  NO.3号」

 子どもの意見表明権
 
 「子どものくせにえらそうなことを言うな」
 「自分の都合のいいことばかり言うな」
 家庭で、学校で、子どもが自分の意見を言うと、このようなことばで遮られることが多い。子どもの意見をまず聞くよりも、親や教師は子どものためを思ってと言いながら、まず自分たちの立場を子どもに分からせようとして意見を押しつける。

 日本のこのような子どもを取り巻く環境の中で、子どもの権利条約第12条「子どもの意見表明権」が真に大人から理解され、受け入れられ、子どもたちが自信をもってこの権利を行使するようになるにはかなりの時間がかかるように思われる。
 このことは自然に育つものではなく、意図的に積極的にこの権利について親、教師、子どもたちが考え、理解し、話し合う必要がありそうだ。

 そして実際に家庭で学校で、親、教師、子どもが、自分の気持ちを素直に話す練習をすることだ。さらには、論理的に筋道立てて話す練習も必要だ。

 どもる子の場合、特にこれらのコミュニケーション能力の育成が大切になる。次のような事例があるからだ。
 「学級の中で金銭が紛失した。現場近くにいた私と別の子にその疑いがかけられた。先生から問いただされた時、私はどもってしどろもどろになり、話のつじつまが合わなくなった。そして、疑いは更に深まり、私は犯人にされてしまった」

 20年以上も前になるこの事件を振り返って、そのときの悔しさをぶつけるどもる人は、どもりたくないあまり、ことばをごまかしている内に表現がおかしくなってしまったと、述懐する。

 平気でどもっていた子どもが吃音を恥じ、悪いものと考えるようになると、だんだんと話す意欲を失っていく。必要最小限のことしか話さなくなると自分の気持ち、考えを徐々に言わなくなる。それでも日常生活にあまり差し障りはないからだ。そして、いざ話したい、話さなければならない時話せなくなってしまう。

 また、自分の気持ちを言わない生活が続くと、嫌なことを一杯経験していても、「嫌だった・・」としか言えず、だから腹が立ったのか、悲しいのか、悔しいのか、自分の気持ちをどう表現したらよいか分からなくなってしまう。
 どもる子をもつ親の多くが、将来、子どもがどもることでからかわれたり、いじめられたりしないかの不安を持つ。どもる子にかかわる者としては、その子の吃症状の軽減より、たとえどもっても、自分の気持ち、考えを伝えるコミュニケーション能力の育成こそが先決で、大切なことのように思える。

 もちろん、子どもが話したとしてもそれを全く受け入れようとしない《森本君のいじめ体験》にある教師のような場合もあり、受け手の側の、子どもに対する人権意識と、上手に聞き、ポイントを的確にとらえる力量が問われるのは言うまでもない。『子どもの意見表明権』に関して、私たち大人が考え、しなければならないことはあまりにも多い。

 「私は悲しい、私は腹が立つ、私はさみしい、私は悔しい、私はうれしい、私は怒っている、など、思ったこと、感じたこと、自分の気持ちを遠慮なく話していいんだよ」
 「私は〜がしたい、私は〜して欲しいなど、それが全てかなえられるかどうかは分からないけれど、心の中で願うことをことばに出して言ってもいいんだよ」
 まず子どもたちに伝えたい。

 日本吃音臨床研究会  伊藤伸二 2015/05/29