僕が卒業式に出るために

 3月8日、東京学芸大学でのナラティブ・アプローチのシンポジウムが5時に終わり、小学6年生の男子生徒と父親、母親に会いました。
 その日までの2回の電話で、どうしたら、卒業式の練習、卒業式の当日に欠席しないで参加出来るかを考えました。その中のひとつの選択肢として、自分のクラスの生徒だけでなく、他のクラスの生徒にも、自分が、どもって言えないことを理解して欲しいが出されていました。

 そして、会うと、母親が文章を書いてきました。子どもと相談して、自分のどもりについて説明し、こんなことで困るから、理解して欲しいという内容でした。文章は、どもりの説明からはじまり、全員で言う学校での思い出を、俳句のように短い文章にしたものを、どもる僕の代わりに誰か読んでもらえませんか」とお願いの文章でした。母親が書いた文章に、子どもは「食事が喉を通らないほど悩んでいた」と書き足して欲しいと要望が出されました。
 その文章を自分のクラスだけでなく、他の二つのクラスの担任にも渡して読んでもらうというのです。そして、クラスで読んでもらうときは、学校を休むというのが計画でした。

 子どもとのやりとりのを僕のことばだけで振り返ると、こんな話でした。


 君が食事ができなくなり、とても憂鬱で、体調を崩し、卒業式の練習も卒業式も嫌なら、練習も、卒業式は休んでもいいと僕は思っていたけれど、君は挑戦しようと決めたんだね。

 君が、卒業式の練習も、卒業式も参加したいと思い、参加するには、どうしたらいいかを考えた。そして、テンポよく、順番に言っていく、自分のセリフは、とても言えそうにないから、友達に代わりにいってもらおうと考えたのは、とてもいいことだと思う。いくら練習しても言えるようになるものでもない。だけど、壇上で卒業証書をもらった後、一言、将来の夢を言うのは、自分のペースでできるから、出来そうだと思うんだね。

 自分のどもりについて、また,自分が困っていることをみんなに伝え、自分の作ったことばを、「代わりに誰か言ってくれませんか」とお願いするのも、とても勇気のいることだ。

 せっかく、勇気を出したのに、この文章をクラスで読んでもらう時に、君が欠席するのは、もったいない。
 自分のどもりについて説明し、みんながどんな反応をするか、ちゃんと見届けた方がいい。君の勇気ある行動に共感してくれる友達もいるだろうし、「なんだあいつ」とからかってくる友達もいるかもしれない。だけど、どもる君を、ばかにするような友達とは、つきあわなくていいじゃないか。ちゃんと、理解してくれる友達と、これからもつきあえば良い。
 君は、みんながしている「呼びかけ」が出来ない、「自分はだめな人間だ」と考えるかもしれないが、自分のことを正直に話して、誰かに助けを求めることは誰でもができることではない。「だめな人間」じゃない。とても勇気のある人のすることなんだ。堂々と、お母さんと一緒に作った「どもりについての文」を君もしっかり聞こう。今日、「どもる君へ いま伝えたいこと」などの本を持って来た。これを機会にしっかりとどもりについて勉強しよう。勇気を出して、ここまで考え、一つの方向を見いだしたのだから、「吃音と上手につきあう」ことが、出来るようになると思う。卒業式の今回のことは、お父さんも、お母さんも一緒に考えてくれたんだから、これからも、一人で悩まずに、両親や担任、そして僕にも相談しよう。


 彼は、誰かに代わってもらうことをネガティヴなものと考えていました。しかし、出来ないことは、出来ないと認めて、誰かに助けを求めることは、勇気のある行動で、「ダメな人間ではない」と言うことは、母親、父親の後押しもあって、理解をしてくれたようでした。

 ある意味、「逃げる」と取られる行動が、勇気ある、積極的な行動だと、ナラティヴを変えることができれば、今回の卒業式の取り組みは、今後に生きてくると僕は思います。
 親や周りの人の力を得ながら、考え、行動する。彼にとっては「吃音サバイバル」の出発でしょう。
 実際に彼がどうしたかはわかりません。僕の小学2年生から、21歳までの吃音を否定し、話すことからも、人に相談することも出来なかった僕にとって、彼の行動は勇気ある行動だと、本当に思います。

 そろそろ卒業式、実際どうなったかの報告はないかもしれませんが、今年の吃音親子サマーキャンプに是非参加して、報告して欲しいと願っています。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/03/14