伊藤伸二・東京吃音ワークショップ
2015年1月11日、吃音ワークショップがありました。関東地方の人が中心ですが、大阪、鹿児島・沖永良部島からも参加がありました。今回は初めて、中学生・高校生の参加がありました。このワークショップは、本来成人の人のためのものなので、お断りしようと思ったのですが、真剣に吃音に向き合う力がありそうで、保護者も参加するとのことなので、不安だったのですが参加を受け付けました。
8時間という長時間でしたが、集中して、とてもいいワークシヨップになりました。その時の話題をひとつ紹介します。
52歳の女性の参加者から、「私は吃音である自分をなかなか受け入れられない。これまで治す努力をしてきたけれども治らない、受け入れたいとは思うが難しい。伊藤さんはどうして21歳の時にどもる自分を認められたのか」と質問を受けました。僕は、「吃音受容」とか、「吃音を受け入れる」などの言葉を、昔はつかっていましたが、ここ20年ほどは使わなくなりました。「自己受容」「吃音受容」「吃音を受け入れる」のことばに、これは僕の個人的な感覚かもしれませんが、「自己受容すべきで」「受け入れるべき」の「ねばならない」をかんじてしまうのです。だから、「受けいけられない」自分はだめな人間だと、自分を責めてしまうことが起こってしまうと考えてしまうのです。だから、「どもる事実を認める」と言う言い方の方が好きで、僕は使つかわなくなりましたが、質問が「どうしたら受け入れられるかだったので、そのまま使います。
「どうしたら、吃音を認められ、受け入れることができるか。そうできないから、ついどもらないようにごまかして、どもりを隠そうとしてしまう」
そこで僕は、ワークシヨップの参加者全員にかんがえてもらうことにしました。
どもりを受け入れないことで起こるメリットとデメリットについてです。受け入れることが正しい、受け入れないのは正しくないなどの問題ではなく、僕は常に、自分にとって「損か得か」「メリットとデメリットは」と考えます。僕は、吃音を否定することで、21歳まで、とても大きな損をして生きてきたから、「もう、損な生き方をしたくないと考えただけです。精神力が強いか弱いかの問題、正しい、正しくないの問題ではないのです。
僕が、人一倍吃音に深く悩み、吃音を否定することでとても損な生き方をしてきたと、強く考えるようになったから、どもる自分を認めよう、どもりながら生きていこうと決心をしただけです。
吃音を否定し、吃音を認められない人は、吃音を否定してもそれなりの人生を歩むことができている人です。僕のように、吃音を否定し、吃音を隠し、話すことから逃げていたら、東京で生活費も、学費も全て自分で稼がなくてはならなかった、貧乏な学生の僕には生きていくことができなかったのです。ことばを代えれば「吃音を認めなくても、否定しても生きていくことができれば、何も「吃音を受け入れる」必要はないと僕は思います。
吃音を受け入れないことによるメリット(プラス面)、とデメリット(マイナス面)を参加者がどのように発言したかは、次回に報告します。おもしろい話し合いになりました。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/01/18