アドラー心理学の基本前提


 今週末、東京吃音ワークシヨップが開かれます。様々な年齢の参加者で、どんなワークショップになるか、興味深い反面、さてとのように展開していくか迷うところです。

 ワークショップなので、僕の講演や講義のように、ある主張をするというものではありませんが、僕が50年近く考えてきた、吃音と上手につきあう方法の提案はしなければなりません。例年、参加者の体験、知りたいこと、学びたいことを中心にくみたてていきますので、何が起こるか、何が展開されるのかは、まったく予想はできません。それでも、昨年は、「ナラティヴ・アプローチ」について話したように思います。

 すべて、参加者の意向に沿いながらすすめては行きますが、もちろん、どこへでも糸のきれた風船のように飛んでいくわけではありません。参加者一人一人が、自分の課題をみつけ、明日からどう行動するかの少しでもヒントになればと願いながら、話し合いは展開していきます。

 今年は、例年黒板に書きながら時間がなくて説明してこなかった「アドラー心理学」について、少し話そうと考えています。吃音と共に生きるために、自分なりの幸せに生きるために「アドラー心理学」はとても役に立つからです。

 昨年、「嫌われる勇気」がベストセラーになり、これまで知られていなかった「アドラー心理学」の知名度が一気に上がりました。役に立つ心理学に多くの人の関心が寄せられるのはうれしいのですが、一抹の不安があります。「アドラー心理学」が、自己啓発本のように扱われ、次から次へとアドラー関連本が出版され、底の浅い理解にとどまると、なんか違うなあという気持ちになります。

 もう随分前から「アドラー心理学」は紹介され、書籍だけでなく、ワークショップや、「基礎講座」や「理論講座」などで時間をかけて学ぶ人々がいて、「アドラー心理学会」という、ある意味とても地味な学会もあり、それらで学んできた人、学び会う人々の自助グループも地方で活動しています。
 本だけでは学べない「アドラー心理学」を一冊の本を読んだだけで、分かったつもりになるのは問題です。そこから、新たな学びへと展開していけばいいことなのですが。

 ひとりの「アドラーフアン」として、ただ、書名がうまくつけられただけで、これまでとは、あまりにもかけ離れた注目のされ方をしていることに、強い違和感を感じます。かえって、生きづらい人がでてくるのではないかとさえ、考えてしまいます。

 また、アドラー心理学の中で、「目的論」が突出して関心が持たれることにも危険を感じます。簡単に、単純に「目的論」だけで考えることができるほど、矛盾を抱えつつも「人が生きる」ことは単純ではないからです。アドラー心理学の基本前提の理解なしに、「目的論」だけが突出することに危険を感じるのです。


 アドラー心理学の「基礎講座・理論編」などでは、この基本前提の勉強に力が注がれています。僕は、講座で、基本前提を学んで、アドラー心理学に少し近づけたという思いがあります。

 個人の主体性
 全体論
 認知論
 目的論
 対人関係論

 この基本前提が理解できたとき、アドラー心理学は、吃音ととても相性がいいと思いました。今回の東京吃音ワークショップでは、この基本前提に沿って、話し合いが展開していけばいいなあと考えています。

 さて、今回も、いい゛出会いがありますように。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/01/08