明るい展望をもった、どもりの話

 小学二年生の秋から吃音に悩み始めた僕は、将来の夢がまったくもてませんでした。社会人として働いているイメージをもつことができませんでした。ただただ「どもりを治したい」思いがいっぱいでした。。初詣の願いは「どもりが治りますように」だけでした。

 1965年夏、僕の人生は一変します。大学の夏休みの一ヶ月「東京正生学院」で吃音治療に励みましたが、まったく治らず、治すことをあきらめてから、僕の人生は変わりました。その秋に、どもる人のセルフヘルプグループ言友会を作り、僕は吃音に関するいろんな夢を、周りの人に語りました。

 ・気兼ねなく皆が集まり、泊まれる事務所がほしい
 ・全国に言友会をつくる
 ・吃音の専門雑誌をつくる
 ・「どもり一座」をつくり全国を巡回する
 ・世界大会を開催する
 ・どもりを主人公にした映画をつくる

 これらを僕が熱く語ると、みんなはそんなこと実現するわけがないと、一笑に付しました。
 毎日東京の繁華街での街頭カンパで集めてお金をもとに、事務所を新築しましたし、言友会は全国にひろがりました。「ことばりリズム」というどもりの雑誌をつくりました。大阪教育大学の教員時代、全国35都道府県38会場で「全国吃音巡回相談会」を3か月をかけて開きました。
 1986年には京都国立国際会議場で10か国38人の海外代表を含めて、400人が参加した第一回世界大会は成功し、一昨年の第10オランダ大会へと続いています。夢だと思われたたことはすべて実現しています。たったひとつ、実現していないのが映画です。一時、取り組み始めたこともありましたが、本腰をいれての取り組みはしませんでした。この映画作りだけが夢に終わるのかもしれません。

 しかし、年末、健康増進センター湯布院で食事のとき同席した、元ドラマ演出家の半田明久と映画の話で盛り上がる中で。夢の炎にかすかな残り火があることに気づきました。そして、今日、湯布院在住のいい仲間である中曽根さんと食事のあとに寄った、平野さんの店で、再び映画の話をしている時に、残り火がまた少し、燃え始めました。平野さんは湯布院・映画祭りなどにかかわり、独自でも自主映画会をしているひとで、アイディアも出してくれました。

 吃音の当事者が「吃音を治す・改善に」向かい、50前に逆戻りし始めているとの吃音の世界の実情を話しますと、そんな時だからこそ、伊藤さんたちの主張するどもりの映画つくったらどうかと言われました。

 「吃音の悩み、苦しみを表現し、それを社会に理解してほしいと求めるではなく、どもりながら、悩みながらも、自分の人生を精一杯生きている人に、吃音でない私たちは共感する。私たちも、いろんな苦労をもちながらも、悩みながらも生きているのだから」

 その通りだと思いました。「吃音のネガティヴな面」が強調され始めた、いまだからこそ、どもる当事者が、困難をかかえつつ、悩みながらも、よりよく生きようとしている姿、僕たちの姿、どもる子どもたちの姿こそ、広く社会に知ってほしいと思いました。

 夢は、やはり夢のままに終わるかもしれません。
 しかし、もう一度、悪あがきしてみるのもいいかなあと思えたのでした。一月に会う、僕のいい仲間に話してみようと思いました。映画の夢を語りながらも、実際に動き始めたことがなかったのですから、失敗してももともとと、スタートはきってもいいかなあと思いが膨らんできました。

 一日から降った雪も今日はやみ、冷たいけれどいい冬の一日の湯布院からの思いです。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015年1月3日