これほど一人の人間の死を、多くの人が共有し、思い出を語ったことはあったでしょうか。映画の共演者が、ロケ地で世話をした、人たちが、自分の身内のように、敬意みちて物語ます。東日本大震災の少年がペットボトルに水をいれて歩く一枚の写真を、あなたたちのことはずっと想っていると、「あなたへ」の映画の台本に貼り付けていたこと、その少年に手紙を書いていたことなどが、次々と証言されていきます。
 大スターと呼ばれる人たちや、偉人といわれる人たちの死にこれまでも僕たちは何度も出会っています。僕が、大ファンだということを差し引いても、この死の反響はこれまで経験したことがないものです。
 その中で、健さんのことばが紹介されていました。

 「孤独な作業に命をさらし、もまれに、もまれ、もだえ苦しんだ者だけが、やさしく、しなやかな心をもつことができる。そういう人に、共感しますね」


 1960年、僕が高校生のころ、日本社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の少年に刺殺されました。当時日本社会党が好きで、下町の小さなアパートに住んで、機関車のように日本を考え「人間機関車」と呼ばれていた、浅沼さんが大好きだった僕は、大きな衝撃を受けました。次の日、僕は学校に行けませんでした。
 身近な人以外の人の死で、心が動いたのは、浅沼さんの死、依頼のことでした。

 また、レスリングの力道山は、フアンではなかったが、朝日新聞の死亡記事に「力道山死ぬ」と書かれたことに新聞社に抗議文を送ったことがあります。ある人は「逝去」、ある人は「死去」と表現されているのに、なぜ力道山は「死ぬ」なのだ。差別意識を感じて、抗議したのでした。朝日新聞社からは、丁寧な回答文が届きました。社会的な出来事として書いたのだとの内容に、納得はいかなかったものの、丁寧に回答してきたことには評価しました。

 昨日は、一日健さんのことが、ちらちらと頭に浮かんできました。デビュー作からほとんど見ている人は、とても少ないと想います。ひょろりとした、ただ男前の青年でしたが、「空手」の映画だったためか、奥に秘めた強さはかんじたのかもしれません。「大学の石松」や、美空ひばりの映画のそえものの助演者だったのが、1963年の「人生劇場」「ジャコ萬の鉄」から変わりはじめ、1964年「日本俠客伝」1965年「網走番外地」と大きく変わります。

 池袋にあった劇場では、夜から健さんの映画の3本立てをしていました。開場前にその映画館をぐるりと若者が囲み、開場と同時に一番前から席がつまっていく。びっしりと立ち見の満員の映画館。健さんが画面に出てくると、「待ってました、健さん」のかけ声が方方からかかります。敵役のヤクザの理不尽な仕打ちに、我慢を重ねて耐えますが、我慢の限界がきて、「やってしまえ」の映画館の聴衆の声援を受けているかのように、大勢の相手に、ひとりで殴り込みをかけます。

 安保闘争、理不尽な国家権力、我慢してきた学生が立ち上がった、全共闘世代の僕たちに、健さんは、まさに僕たちを奮い立たせるヒーローだったのです。歌手の加藤登紀子があとになって、池袋のこの劇場を取り囲んだひとりだとしりました。

 ヤクザ映画が衰退し、健さんは東映を離れます。ここからまた大きな変身をとげていきます。極限まで過酷な撮影「八甲田山」の中で、大きく変身をとげ、「幸せの黄色いハンカチ」「動乱」などを経て、今の高倉健になっていきます。

 僕は、ひとつにとことんのめり込む方です。「自己概念」に関心をもつと、そのタイトルの本は全て買います。「笑いとユーモア」のワークショップを開いたとき、100冊以上、その関係の本があったのには驚きました。
 今は「ナラティヴ・アローチ」。数えてみれば70冊を超えています。

 デビューから、最終作まで「高倉健」を見続け、その変化、成長、転換、到達点を見届けた幸せを想います。
昨日は、普段はまったく見ない、朝8時からのワイドショーのふたつの番組を録画しました。ワイドショーでは、芸能ゴシップか悲惨な事件ばかりが取り上げられているようです。今回は、「高倉健」一色でした。

 この死は、悲しいできごとなのに、その死を悼む人々の物語、エピソードが紹介で、こころが温まります。一人の映画人としてだけでなく、一人の人間としてすばらしい人だったのだと、改めて想います。

 どんな俳優になっていくのか、未知数のデビューから、何かに惹かれて見続けてきた。その健さんが「大きな俳優、人間」として歩んできた姿を、追いかけることができた幸せを想います。
 「あなたに褒められたくて」 「南極のペンギン」など、エッセー集があります。もう一度読もうと思います。 合掌

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/11/20