僕の大好きなというよりも、惚れ込んでいた映画俳優・高倉健さんが亡くなった。次回作を期待していただけに突然の訃報が信じられません。
健さんの第一作は「電光空手打ち」(1956年)で、それからほとんど全ての作品を見ています。
安保闘争・大学紛争のまっただ中に公開された、1965年の「網走番外地」「日本侠客伝」は、当時機動隊と激しく闘っていた、全共闘の世代の僕たちに、熱狂的に支持されました。
僕が吃音を治すために東京正生学院に行った年であり、初めて吃音に真剣に向き合った年で、どもる人のセルフヘルプグループを創立した年でもありました。
「網走番外地」の公開の初日、映画館「新宿東映」の前は人手あふれていました。その映画館が瞬く間にぎっしりとつまり、近くの映画館を急遽空けて人を誘導するという、今では信じられないような熱狂ぶりでした。
年を経るにつれて良い俳優に転身していった、健さんの姿を僕はずっと見てきた気がします。
1976年の僕の著書、『吃音者宣言−言友会運動十年−』(たいまつ社)の裏表紙に僕の写真と共に、恩師の神山五郎先生が、次のような推薦文を書いて下さいました。
「高倉健に惚れ、かつ大学教官というふうに彼を紹介しておこう。事実、伊藤伸二を慕うどもる人々や関係する学生は多い。彼自身も面倒見がよくつねにすがすがしい・・・・・・」
デビューの第一作から見ている人はそんなに多くないでしょう。ヤクザ映画から「幸せの黄色いハンカチ」「動乱」などの良質な映画に出演していく、健さんの変化、成長とともに僕も歩んできたように思います。ただただ寂しいです。
以前僕たちのニユースレターに書いた文章を紹介します。
あなたに褒められたくて
お母さん。僕はあなたに褒めちれたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を描れて返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』のタ張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、30数年駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。
いつも−どんな別れでも−
あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。
『あなたに褒められたくて』 高倉健 集英社
数々の賞を受け、大勢のファンを持つ最後の映画スターと呼ばれる映画俳優の高倉健さんは、ただ母親かちのストロークが欲しくて、30数年俳優を続けてきたのだという。
交流分析のエリック・バーンは、人が生きていく上で、食物をとり、睡眠が欠かせないように、プラスのストロ一ク(撫でられる、微笑みかけられる、認められる、褒められる)は、欠かせないと言う。
マイナスのストロークを与えられ続けられると、自分自身にもマイナスのストロークを与えるパターンが身につく。そして他者に対してストロークを与えることができない。そして、素直にストロークを受けることができなくなる。
あるワークショップで、「みんなの前で、自分のことをことばに出して褒めよう」というエクササイズがあった。私も含め、なかなか自分を褒めることができない。たとえ、褒めてもいいなあということに思い当たっても肖慢話をするようで気恥ずかしい。白分を甘やかしているようだという人もいる。白分のことをけなしたり、叱ることはいくらでも浮かんでくるが、自分を褒めることばはどうしても浮かんでこないと立往生した人もいた。
他者を目分を褒めることは、他者を自分を批判し、けなすよりはるかに難しい。自分が与えるストローク、受けるストロークにまず気づくことである。そして、他者に自分にマイナスのストロークを与えがちな人はブラスのストロークを与える練習をする必要がある。
吃音の両親教室で、子どもを叱るよりも少しでもいいことをみつけて子どもにプラスのストロークを与えて下さい」と親にお願いする。
捜してもいい所はみつかりません」「そんなことをすると子どもがいい気になって困ります」「いい所なんてない子を褒めるなんて、嘘をついていることになります」と親は少なからず抵抗する。
物事には必ず両面があり、短所と思っていることが裏返してみると長所ともなる。またいろいろと捜してみて全くいい所がないという人はない。何がしかのいい所は必ずある。子どもの中のどの部分に注日するかの違いであって、唾をついているわけではない。嘘をついているようだという人は、「私はワンパターン人間で、狭い見方しかできません。そして、その見方を変えたくありません」と表明しているに等しい。
吃音に関して、私たちは、「流暢に話せたという経験」を積み重ねるよりもむしろ、「どもてでも日標を達成できた」ということを評価している。たまたま、どもらずに成功したことよりも、嫌だと恩いながらも逃げずに実行し、上手といかなくてもそれなりに目標が達せちれたことにプラスのストロークを与えたい。それはその後の人生を肯定的に生きる支えになる。
「これまでの私なら、どもるのが嫌さに友人の結婚式の挨拶を断ったろう。でも、今回は逃げずにやれた。どもってうまく話せなかったが、最後まで言い切った。こんな自分を褒めてやろう」
高倉健さんは、母親に褒められたくて30数年間、俳優を続けた。私たちセルフヘルプグループは、吃音の悩みの中にあるどもる人に、「あなたたちに出会えてよかったです」と言ってもらいたくて、25年間活動を続けてきたと言える。
そう、あなたに褒められたくて。 1991年7月25日 記