真剣な温かい討議
北海道言語障害児教育研究大会・渡島、函館大会。
僕の記念講演の翌日は。午前と午後の時間がたっぷりとある分科会です。僕は全国難聴言語障害教育の全国大会、九州大会、東海四県難言大会などで、何度も分科会の助言者をしています。助言者とひとりの参加者としてその場にいるのとは当然違うのですが、今回ほど気持ちよくその場にいられたのは初めてです。
事例検討は、医療、教育、福祉の臨床の場の全てで、必要不可欠なもっとも大事にしなければならないことだと思います。しかし、僕は本当は「事例検討」の「事例」のことばが、どうも好きになれません。自分がどもる当事者だから、事例と言われるのが生理的に抵抗があるのだと思います。大切なことなので、もっと違う言い方はできないのだろうかといつも思います。「事例検討」そのことには、ありがたいことだと思うのですが。
その名称はともかく、多くの事例検討会に参加して、事例である、Aさん、Bさんのことは当然のことながら、生育力などを含めて、詳細に述べられるのですが、指導、支援した側の思いが、あまり語られなかったとは、僕の印象です。詳しく語られる、Aさん、Bさんであったとしても、客観的なことがら、自分が観察したことが中心で、その子どもの考え、思いなどを主観的な、実際にその人が語った言葉として表現されることはあまりありません。
子どものことばを、親のことばを、担当者のことばや思いを、もっと出した「事例検討」ができないかなあと、常に考えていました。今回僕が参加した分科会、濱崎健さんの「周囲のことが気にかかってしまうAさんの事例」の報告には、その時々のことばが紹介され、その時、担当者である自分がどう感じ、どう考えたかが、正直な反省も含めて、表現されていました。
吃音の分科会では、ともすれば「言語指導・言語訓練」でこのように改善され、それがその子どもの自信につながった、というような発表になりがちです。濱崎さんの発表にはそのようなものはなく、子どもの思い、担当者の思いの軌跡が丁寧に語られました。
討議の時間です。感想、質問を無理強いされていないのに、つぎつぎと出される、質問や、感想は、発表者へのねぎらいと、敬意と励ましに満ちていました。
2000年全難言全国大会・千歳大会で千葉市の渡辺美穂さんが、子どもの様子をビデオをみせたら、6年間ことばの教室で指導しながら、こんなにどもらせていいのか」と助言者から批判され、周りもそれに影響されて、批判的な空気が流れて、悔しかったとの思いをしました。だから、同じ北海道だったこともあり、その違いを思いました。
僕も、何度も助言者をしていますが、僕の考えと多少違うところがあり、疑問があっても、できるだけ、すばらしい所を探そうとします。それを伝えた後で、僕はこう考えると伝えることはありますが、発表者への敬意を失ったら、その分科会は後味の悪いものになります。今後の展望を考える意味で、時に厳しく感じるような発言を僕がすることは時にあるかもしれませんが、それは、個人攻撃ではありません。どもる子どもに、こうかかわって欲しいとの思いを、その事例とは別の次元で伝えることはありますが。
この分科会、それぞれの発言が。とても共感できるものでした。僕が発言しているような気持ちにさえなりました。だから、コーティネーターが好意で、僕に発言する機会を与えて下さいましたが、僕が言いたかったことは、ほとんど参加者が発言していましたので、あえて、僕が繰り返すことも有りませんでした。なので、僕ならではの、必要最小限の発言にとどめました。
それは、この発表を聞いて、ふたつのテーマで子どもと「当事者研究」ができるのではないかというものでした。
長い時間を、ひとつの事例で徹底的に話し合う。それも発表者への、ここまでまとめた、思索への労をねぎらい、敬意と、温かさにあふれる発言に、この人たちにかかわってもらえる、どもる子どもは幸せだと思いました。
コーディネータのまとめが終わり、これで終了という間際になって、「すみません、一言だけ感想を言わせて下さい」と、「僕は今までたくさんの吃音の分科会に出ているが、今回初めて、北海道のことばの教室のみなさんの分科会に参加して、みなさんの、ひとりひとりの、よく感じ、よく考えた発言のすばらしさに敬意を表します」と、発言していました。気持ちのいい分科会でした。
そして、吃音の症状を改善しようとする「言語訓練」は止めて欲しい、強くと訴えていたのが、北海道では、取り越し苦労に終わるかもしれないとも思えました。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/09/20