東海四県言語・聴覚・発達障害児教育研究大会 吃音分科会
前回、対人援助の仕事に関わる人の、謙虚さのことを書きました。カウンセリングのかかわる場にいて常に謙虚さの大切さをかんじていましたが、特に言語聴覚士養成の専門学校にかかわるようになって、強調し始めました。
言語聴覚士という専門職者になるという、気負いがあるのでしょう。どうしても、「吃音を治す、改善する」の使命感にとらわれてしまうようです。
吃音にかかわる人に、僕が常に言いつつけてきたことは、謙虚、誠実さ対等性です。専門的な知識の学習はプロとして当然のことですが、それらを学べば学ぶほど、謙虚さや対等性が失われていく人に、たくさん合ってきました。吃音は、原因が分からず、治療法も確立されていません。誠実な人であれば、謙虚にならざるを得ません。斯うすれば、こうなるという、明確なものがないものに対する対処は、当事者と対等の立場で、試行錯誤するしかないのです。うまくいかなくて落ち込み、あまくいって喜び、日々の取り組みの中で、一緒に迷いながらも、明確な一つの方向「幸せに生きるために」を目指す、同志であればいいのです。
ふたつの提案の一つのタイトルが、「どもっていなければ立候補したかった−Aさんに必要な支援を模索して」でした。子どもと、吃音についてあまり向き合えなかった担当者が、「あまりにも吃音の本質についてふれない」ことに内省し、吃音について話すことの必要性にきづいていきます。「あなたが、吃音を意識しない方がいいとおもつていたけれど、ほんとうは、気にしていたよね」と、担当者が自分自身のことも語りながら、向き合ったとき、子どもも、自分の言葉のことを堰をきって話し始めた。
「明るく生活できているかに大丈夫」という姿勢を周りにみせながら、外にみせないつらさを抱えている子どもを、ことばの教室を卒業させたものの、担当者として、もつとかかわれたのではないかと、内省しつつ考察したこの提案に、自信をもって「吃音はコントロールできる。楽にどもる指導をしている」と言い切る、指導報告とは違う、誠実さと、謙虚さを感じました。
「どもっていなければ立候補したかった」
この、子どもの語りから、どのように語りを展開していくか、ナラティヴ・アプローチの可能性と、具体的な子どもとの語りを報告する、事例検討がこれまでほとんどなかつたことを考えれば、今回の提案に、自分の発言、子どもの発言が紹介されており、今後の大きな可能性を感じました。
どもる子どもの指導に自信がないという、ことばの教室の担当者は少なくありません。自信がないからこそ、精一杯、自分の今ある力と、新しく学んだり、体験したことをもとに関わります。
「どもりは、完全には治らなくても、少しでも症状は軽減できる」
根拠のない楽観と、意味のない、エビデンス(科学的、統計的根拠)がまったくない訓練法を、見よう見まねでする人たちに比べ、僕は、今回のような提案者の姿勢が好きです。
もうひとつの提案は、迷いつつもひとつの方向を見いだした提案で、60人をこえる参加者に大いに参考になるものでした。次回はその提案について紹介します。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/08/21