1996年8月15日号の、「スタタリング・ナウ」の巻頭言を紹介することにしました。
前回も書きましたが、僕たちは今、「吃音者」を使いません。過去の文章なのて、そのまま紹介します。
吃音者よ、吃音と闘うな
− 人は夢や希望を持つことが大切とよく言われます。しかし、ことがんに関しては、それは当てはまりません。いや、むしろ、夢や希望を持つことは有害とさえいえるでしょう。なぜならば、夢や希望にすがった結果、からだを切りきざまれ、単なる毒でしかないものを使われてしまうからです・・(中賂)
せっかくよかれと思ってつらい治療をうけたのに、あとで後悔するのは悲しすぎます。後悔しないためには、がん治療の現状を正確に知り、がんの本質を深く洞察することが必要になるのです。できることとできないことをはっきりさせて人々に知らせることも科学としての医学の役割でしょう。これまで、患者や家族が悲痛にあえいできたについては、がんと闘う、という言葉にも責任があったようにも思われます。自分のからだと闘うという思想や理念に矛盾はないでしょうか。
徹底的に闘えば闘うほど、自分の体を痛めつけ、滅びの道へと歩むことにはならないでしょうか−
『患者よ、がんと闘うな』近藤誠 文藝春秋社
今、ベストセラーになっている、この本はがんについて書かれたものだが、がんをどもりに置き換えると、そのまま、私たちがこれまで主張してきたこととほぼ同じだ。
「今まで言われているがん治療法は手術を含め、ほとんど有効ではない。抗がん剤の副作用で多くの患者たちが悩んでいる。抗がん剤が効くのは、1割程度。がん検診は百害あって一利なし」
近藤さんはこう主張し、がんと闘うなという。
吃音は、薬も、手術もない。これといった治療方法はまだ確立されていない。その中で、治したいという希望だけが根強く残っている。
確実な治療方法がないのに、どもりを治したいと夢をもつこと、どもりを治そうと試みることが、どんなにその人の自分らしく生きることを阻害するか。私たちは多くの実例をみてきた。
ギリシャのデモステネスの時代から、どもりを治す試みは続けられた。多くの吃音者が果敢にも、どもりとの闘いに挑んだ。闘いに挑み、勝利した人もいるだろうが、実際には、努力しても治らない人の方が圧倒的に多い。
治らないことに気づき、早く闘いを投げ出した人はいいが、諦められず、どもりを治さなければならないと思いつめる人は、果てしない闘いに駆り立てられていく。治らないのは、自分の努力が足りないからだと自分を責め、あくまでどもりとの闘いを止めず、疲弊していく。
吃音者の悩みは、治せないものに対して、治ると信じて闘いを挑むことだと言っていい。挑戦し続け、それが実現せず、自己不信に陥り、自己を否定していく。吃音の場合の、治療からくる副作用は自己否定である。
早くこの闘いの無意味さを知らさなければならない。私たちは20年以上も前の1974年、《治す努力の否定》を提起した。
この20年間、吃音についてどんな進展があったろうか。有効な治療方法が確立しただろうか。一方、私たちの主張は広く受け入れられるようになっただろうか。残念ながら、両者とも全く変わっていない。
20年前、それこそ清水の舞台から飛び降りる決意で提起した《治す努力の否定》以降も、吃音との闘いに挑む人、吃音児をその闘いに向かわせる吃音研究者、臨床家も後を絶たない。
吃音者の悩みの多くが、治らないものを、治そうと挑むことなのに、その吃音との闘いをすすめることはなんと残酷なことか。
私たちは、再び声をあげなければならない。
『吃音者よ、吃音と闘うな』
『吃音児・者を、吃音と闘う戦場に送るな』
1996年8月15日記
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/08/12