母を恨んだ出来事
僕は子どもの頃、母親、父親に愛されていたと確信をもっていました。苦しかった学校生活もなんとか持ちこたえていたのf温かく、安心できていた家庭があったからです。それが中学2年の夏に一変しました。
どもりを治したいと切実に思っていた僕にとって、夏休み前に手にした、浜本正之著「どもりは20日間で必ず全治する」(文芸社)の本は宝物を手に入れたようなものでした。これであの苦しい生活から抜け出ることができる。夏休みに治して、新学期には、どもらない人間として学校へ行ける。そう信じた僕は、それから毎日2時間は、河原で、山で、町を歩きながら、「まず態度、口を開いて、息吸って、母音をつけて軽く言うこと」の発音・発声練習に取り組みました。
一日も練習は休みたくなかったので、外へ出られなかった大型台風の日。仕方なく、母親の鏡台の前で大きな声を出して、「アーイーウー」と練習をしていました。
その時、「うるさいわね。そんなことしても、どもり治りっこないでしょ」の母親の声が飛んできました。一瞬耳を疑いました。その本には親の協力でどもりを治した少年の写真が載っていて、協力してくれないまでも、まさか、こんなことばが母親から投げかけられるとは思いもしません。
「親のくせに、子どもが一所懸命自分で治そうと努力しているのに、なんでそんなこと言うんや」
泣きわめいて、風雨の強い中、私は家を飛び出しました。その日から私は母を恨み、母親とは、生活の必要最小限の会話しかしなくなりました。学校には居場所がないのは当然としても、家庭にも僕の居場所がなくなりました。その日から僕は母親が嫌いになり、家族全員ともうまくいかなくなりました。
秋になって、どもりが治るどころか、母親を恨んで生きる生活になってしまいました。夜の食事が終わると、勉強などまったくせずに自転車で夜をうろつくようになりました。何度も警官から呼び止められたこともありました。今だったら、悪い友だちの輪の中に入り、不良少年になっていただろうと思います。
それからは、映画館だけが僕の居場所になりました。とても貧しくて、小遣いなどなかったのですが、父親が僕に預けた「記念切手の収集帳」の切手を、一枚、二枚と売っては、それが映画代になりました。当時、記念切手の価値あるものはかなりの金額で買ってくれる店があったのです。
当時の三重県の津市には映画館が5館ほどあり、週に2回ほど映画館にいっていました。1950年から1960年頃の外国の映画はほとんどみています。中でも、ジェーム・スディーンの「エデンの東」は何度も見ました。親への愛に飢えたデーインに自分を重ねていたのです。中学2年生のその頃に「次郎物語」を涙を流して見ていたのです。次郎は、母の死の直前に、母が自分を愛していたこと、自分も愛を求めていたことを心の底から思って、なくなった母にすがって号泣するところは、僕も泣きながら、いつか母への恨みが消え、昔のような母と子の関係にもどれるのではないかと、次郎物語の結末をからだにしみこませていたのだと思います。
次郎のように、母親の死の直前ではなく、20歳の時に僕は母親への思いを取り戻すことができました。
20歳まで人間不信一色になり、どもりを恨み、母を恨み、勉強も、遊びも全くしない、無気力な思春期を生きていたのが、家の貧しさのために、大阪に出て、新聞配達店に住み込んでの2浪生活が始まりました。
将来の東京での生活のためにお金を貯めたかったので、販売店の息子さんの分まで配達させてもらっていたので、350件ほじの配達です。さすがにくたくたになり、疲れ切ったからだを狭いアパートで寝転がっていると、家族の中でいた孤立とはまったく違う、大阪という大都会のなかて、ひとりつらい生活をするなかでの孤独は、例えようもなくつらいものでした。
大阪にきて、1か月も経たないある満月の夜、外へ出て歩いているとき、ふと、子どものころよく母に歌ってもらった、大好きな童謡を僕は口ずさんでいました。
♪動物園のらくださん まん丸お月さん出た時は
遠いお国の母さんと おねんねした夜を思い出す♪
この童謡はほとんどの人がしらないと思います。母親が僕たちに歌ってくれた特別の童謡なのです。
砂漠の母を思い出す、動物園のらくだに、僕はなっていました。たった一度の「うるさい」で私は母を恨みましたが、母は私を胸に抱いてこの童謡をよく歌ってくれました。友達にうらやましがられた運動会のお弁当や誕生日のいなりずしを作ってくれました。骨折したとき世話をしてくれました。
母親から受けた「愛」が次から次へと思い出されました。私は一年近くをかけて、次郎が母親の看病生活の中で母との思いを通わせたように、僕も母親の愛を取り戻しました。
次郎物語は僕にとって、特別の映画だったのです。それを50年以上の歳月を経て、再び見ることができたのはうれしいことでした。かなりのシーンを思い出せたので、食い入るようにあの頃見ていたのだと思います。こんなに鮮やかに覚えていたのは、一度だけではなく、上映期間中に何度も見に行っていたのだと思います。
今、小津安二郎の映画をみています。子どものころはほとんど外国映画しかみなかったので、これから日本のいい映画をみてみようという気持ちになりました。
映画や、文学の世界に僕を招いてくれたのは、どもりに深く悩んでいたからです。どもりに感謝です。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/06