清水宏監督の次郎物語


 先日、清水宏監督の作品を1か月ほど上映している映画館で「次郎物語」をみてきました。1955年制作のこの映画を三重県の津市で見たのはいつのことか記憶がありませんが、中学2年の夏以降ではないかと思います。この映画は、僕の心にいつまでも残り続け、影響を与えた3本の映画の一つで、未だに忘れられない映画となっているのには、中学2年の秋でなければならないのです。

 僕は中学2年の夏から、母親との関係が悪くなり、母を恨んでいました。家族の中に僕の居場所がありませんでした。友だちがなく、ひとりぼっちの寂しさの中で、よく本を読み、よく映画を見に行っていました。特に僕の心にしみたのは下村湖人の「次郎物語」でした。そして、清水宏監督の「次郎物語」が公開されたのも、ちょうど、中学2年生ころだと思います。

 母に近づきたいとおもいながら、近づけない。他のきょうだいは母や祖母にかわいがられているのに次郎は、母になつけない。それが母の亡くなる直前に母も、次郎も心から親子の情愛を通わせる。おそらく、自分のことと重ね合わせて、涙をぼろぼろこぼしながら、中学2年の時次郎物語をみたのだと思います。

 それほど大きな作品ではないのでその後は上映されることはなく、全くみていません。55年ぶりに「次郎物語」を見たことになります。不思議なことに、育ててくれた「ばあや」の望月優子、次郎のするどい目、田園風景、母親が亡くなるシーン、鮮やかに覚えていました。多分。母への思いを重ねて見ていた中学2年の時もそうだあったように、今回も、ぼろぼろと泣いていました。

 母親がなくなる間際に、次郎を愛情をもって育ててくれた「お浜」に、「
 「子どもというものは、しっかりと抱いて、かわいがらないと、しっかり愛さないと、親子にはなれないのだね。私になじまない時、次郎にもお浜にも、つらくあたっていたようだ。お浜にわびたいと、ずっと思っていたのだよ。よく、来てくれたね」と、なくなる直前のか細い声で、お浜と次郎にわびるシーンは、55年前に中学生の自分が、リアルタイムで見ているような錯覚を覚えました。

 中学2年の夏の出来事は次回に紹介しますが、その前に次郎物語のあらすじを少し紹介します。

  本田家の次男として生まれた次郎は、母親が母乳がでないなどの理由で、里子として、ばあやと呼ぶお浜に育てられます。我が子以上にかわいがられて育った次郎は、本田家に戻そうとしても、すぐにお浜のもとに帰ろうとして、実の母親になかなかなれません。やがて実家にいやいやながら強引に実家に戻されますが、士族としての誇りに生きる本田家と、ばあやに自由に育てられた環境とはまったく違います。父親、母親はなんとか本田家に馴染んでほしいと愛情を注ぎますが、慣れない環境や祖母のえこひいきにあい、なかなか馴染むことができません。
 
 祖父が死に、母親は結核に侵され、父親も連帯保証人になった相手が破産したため、次郎は母の療養を兼ねて母方の実家で生活することになります。献身的な介護を続けるうち次郎と母親お民との間の親子のわだかまりは解け、次郎は母へ、お民は次郎への思慕が募るようになります。お民の臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ次郎は号泣します

 小津安二郎が今、再び注目を浴びていますが、同じ頃の監督で、小津が「映画の天才」と一目おいていた清水宏が再び注目されています。1か月も特集が組まれて、たくさんの作品が上映された中の「次郎物語」に再び出会えたのはうれしいことでした。

 偶然にも、僕たちの毎月発行するニュースレター「スタタリング・ナウ」の2月号に、「内観法」の特集の巻頭言にこの中学2年のときの出来事を書きました。小津安二郎の映画も再び見始めていた時期だけに、清水宏の映画特集は、あまりにもタイムリーでした。

 次回は、僕が一段とどもりに悩むようになった中学2年生の夏の出来事を紹介します。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/03/01