吃音の当事者研究の本について感想を書いて下さいました。
お読みになった方、よければ感想、コメントをいただければうれといてせす。日本吃音臨床研究会のホームページの問い合わせコーナーから、私の方へは連絡が届くことになっています。
仲間
藤岡 千恵(37歳 会社員)
この本で紹介されている、べてるの家の宮西勝子さんの「笑えばよかったんだ」というエピソードが好きだ。それは、苦労をもって生きてきたひとりの人が、同じく苦労を持ち寄ったあたたかい仲間の中で変化していくという豊かな大きな力を象徴しているように思えるから。笑うということ、笑わせてくれる仲間がいるということ。いい仲間がいれば、とびきりの苦労も自分や仲間の財産になり、生きるうえで自分を支えるお守りにもなる。私にとっては、あたたかくて心強いエピソードだった。
この本が作られるきっかけとなった2年前の第17回吃音ショートコースに、私は参加した。そして本が完成し、三人の吃音の当事者研究をあらためて読んだ時、ショートコースで体験した生き生きとした時間がよみがえってきた。あの時、生き生きとした時間のなかで私が体験した「当事者研究」は、“初めて出会うもの”というより、どことなく馴染みのある感覚のものだった。それもそのはず、ひとつのテーマについて皆で話し合い、自分の体験を話すことでさらに話題が深まり、それを聞いた仲間からは、つっこみや笑いとともにあたたかいメッセージが返ってくる光景は、大阪吃音教室の例会の一コマと同じだったからだ。そう考えると私たちが吃音を通して体験していること全てが、大きな「当事者研究」なのだろうと思う。
当事者研究の中で「自分の研究に名前をつける」という作業がとても興味深い。吃音の当事者研究でも三人の研究には、それぞれの苦労をもとにちょっとユニークな名前がつけられている。名前をつけることで自分と一体化していた苦労が自分の手を離れ、目に見えるものになる。「人と問題の切り離し」とは、こういうことなんだろうな、と思った。「当事者研究」を通して、専門家に丸投げしないで“自分自身でともに”自分の人生を生きる術を探るという、べてるのアプローチはよくできているなあと思う。
そういえば大阪吃音教室で「当事者」という言葉を知った当初、私はその言葉があまり好きではなかった。その頃の私は「(吃音の)当事者」という言葉にどこか偏見を持っていたのだろうと思う。長い時間をかけて否定してきた「吃音」、そして「吃音をもつ自分」。思えば子どもの頃から頑なに吃音を隠し、当事者ではない振りをしてきた人生だった。そんな私が仲間に出会い、その仲間とたくさんの思いや体験を共有することで、どもりを認め、自分を認めてゆっくりと変化してきたことを思い出した。そもそも、私が吃音をもっていたからこそ、そしてその吃音が今まで治らなかったからこそ、このすばらしい仲間に出会えた。そう思うと吃音に感謝の気持ちが湧いてくる。人目に触れさせることを頑なに禁じていた「吃音」も今では自分の大切な一部だと思うようになった。今、私が「吃音の当事者」であるということに誇りすら感じさせてくれるのは、たくさんの体験をともにしてきた偉大な仲間たちの存在があるからだ。
吃音を心の奥深くに閉じ込めていた私は、9年前、幸せな人生を送るために吃音に向き合おううと決心した。そして信頼のおける仲間と一緒に泣いたり笑ったり思いを分かち合いながら、たくさんの出会いと経験を重ねてきた今、「吃音に向き合う」という当初の目的をいつのまにかクリアしていたことに気がついた。しかも、今私の前にあるのは、昔描いていた漠然とした夢見がちな「幸せのようなもの」ではなく、地に足をつけ、生きている実感をともなった確かな「幸せ」である。
それでも、吃音の悩みがとりあえず一段落した今なお、生きづらさや苦労は私のそばにある。それは、これから私が取り組むテーマのひとつなのだろうと思う。
この本を読み終えた後、「テーマをもって生きることはたぶん楽しいことなんだろう」と、ふと思った。苦労も分かち合える仲間がいれば自分の財産になる。いい仲間と出会えたことに心から感謝している。 藤岡 千恵
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/02/03
お読みになった方、よければ感想、コメントをいただければうれといてせす。日本吃音臨床研究会のホームページの問い合わせコーナーから、私の方へは連絡が届くことになっています。
仲間
藤岡 千恵(37歳 会社員)
この本で紹介されている、べてるの家の宮西勝子さんの「笑えばよかったんだ」というエピソードが好きだ。それは、苦労をもって生きてきたひとりの人が、同じく苦労を持ち寄ったあたたかい仲間の中で変化していくという豊かな大きな力を象徴しているように思えるから。笑うということ、笑わせてくれる仲間がいるということ。いい仲間がいれば、とびきりの苦労も自分や仲間の財産になり、生きるうえで自分を支えるお守りにもなる。私にとっては、あたたかくて心強いエピソードだった。
この本が作られるきっかけとなった2年前の第17回吃音ショートコースに、私は参加した。そして本が完成し、三人の吃音の当事者研究をあらためて読んだ時、ショートコースで体験した生き生きとした時間がよみがえってきた。あの時、生き生きとした時間のなかで私が体験した「当事者研究」は、“初めて出会うもの”というより、どことなく馴染みのある感覚のものだった。それもそのはず、ひとつのテーマについて皆で話し合い、自分の体験を話すことでさらに話題が深まり、それを聞いた仲間からは、つっこみや笑いとともにあたたかいメッセージが返ってくる光景は、大阪吃音教室の例会の一コマと同じだったからだ。そう考えると私たちが吃音を通して体験していること全てが、大きな「当事者研究」なのだろうと思う。
当事者研究の中で「自分の研究に名前をつける」という作業がとても興味深い。吃音の当事者研究でも三人の研究には、それぞれの苦労をもとにちょっとユニークな名前がつけられている。名前をつけることで自分と一体化していた苦労が自分の手を離れ、目に見えるものになる。「人と問題の切り離し」とは、こういうことなんだろうな、と思った。「当事者研究」を通して、専門家に丸投げしないで“自分自身でともに”自分の人生を生きる術を探るという、べてるのアプローチはよくできているなあと思う。
そういえば大阪吃音教室で「当事者」という言葉を知った当初、私はその言葉があまり好きではなかった。その頃の私は「(吃音の)当事者」という言葉にどこか偏見を持っていたのだろうと思う。長い時間をかけて否定してきた「吃音」、そして「吃音をもつ自分」。思えば子どもの頃から頑なに吃音を隠し、当事者ではない振りをしてきた人生だった。そんな私が仲間に出会い、その仲間とたくさんの思いや体験を共有することで、どもりを認め、自分を認めてゆっくりと変化してきたことを思い出した。そもそも、私が吃音をもっていたからこそ、そしてその吃音が今まで治らなかったからこそ、このすばらしい仲間に出会えた。そう思うと吃音に感謝の気持ちが湧いてくる。人目に触れさせることを頑なに禁じていた「吃音」も今では自分の大切な一部だと思うようになった。今、私が「吃音の当事者」であるということに誇りすら感じさせてくれるのは、たくさんの体験をともにしてきた偉大な仲間たちの存在があるからだ。
吃音を心の奥深くに閉じ込めていた私は、9年前、幸せな人生を送るために吃音に向き合おううと決心した。そして信頼のおける仲間と一緒に泣いたり笑ったり思いを分かち合いながら、たくさんの出会いと経験を重ねてきた今、「吃音に向き合う」という当初の目的をいつのまにかクリアしていたことに気がついた。しかも、今私の前にあるのは、昔描いていた漠然とした夢見がちな「幸せのようなもの」ではなく、地に足をつけ、生きている実感をともなった確かな「幸せ」である。
それでも、吃音の悩みがとりあえず一段落した今なお、生きづらさや苦労は私のそばにある。それは、これから私が取り組むテーマのひとつなのだろうと思う。
この本を読み終えた後、「テーマをもって生きることはたぶん楽しいことなんだろう」と、ふと思った。苦労も分かち合える仲間がいれば自分の財産になる。いい仲間と出会えたことに心から感謝している。 藤岡 千恵
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/02/03