言い換えは 言葉の魔術師 得意技 (学習・どもりカルタ)
NHKの番組に「落語でブッダ」という番組があります。落語も仏教も大好きな僕は、珍しくテレビを見ました。その日の落語は「猿後家」。
猿によく似た商家の後家さん(お家はん)は「猿」という言葉が大嫌い、その商家に出入りする太兵衛はおべんちゃらの得意な調子者。おべんちゃらでお家はんを機嫌良くさせて、食事や小遣いをもらっています。「猿」は禁句なのですが、つい奈良の話をしている時に、「猿沢の池」と言ってしまって逆鱗に触れ、出入り禁止。その後いろいろとおべんちゃらで挽回しようとしますが、やはり「サル」と言ってしまう。言ってはいけないと思えば思うほど言ってしまうことで、どたばたが起こります。
この落語を、宗教学者の釈徹宗さんが仏教にからめて深読みします。
釈徹宗さんは、仏教徒が生活の中で守るべき戒めとして十善戒を紹介します。不殺生(ころさない)(盗まない)などの十の戒めの中で、四つがことばに関する戒めだとして、仏教がいかにことばを慎重に扱おうとしていたかが分かるといいます。相手の気持ちになって、慈しみのことばをかけることを説いてきた。どうすれば、ことばは相手の心に届くのかを考えてきたと言います。
スッタニパータというお経の中に、「人は口の中に斧を持て生まれてくる」とのことばがあります。暴れることばは、斧であり、使い方を間違えたら、人を傷つけるし、自分も傷つけてしまうというのです。思ったことをそのまま口に出すことは、あまりいいこととは考えません。ことばを出す前に一旦整えて、いいタイミングで出す。このことばを言うべき人に言うふうなトレーニングを日々送る。それが、仏教の大きな特徴たせと、釈徹宗さんは言います。
十善戒の中のことばに関するもの
不妄語 ふもうご…うそをついてはいけない
不綺語 ふきご…おべんちゃらを言ってはいけない
不悪語 ふあっく…人の悪口を言ってはいけない
不両舌 ふりょうぜつ…二枚舌を使ってはいけない
釈徹宗さんはポイントとして、ことばは整えるけれど、できるだけ、思いと大きくずれたことばは使わない。良かろうと思って言ったことばが、相手を怒らせてしまったり、何気ない発言で相手を傷つけてしまったり、受け手の性格や人生観によって、解釈は全く違ってしまう。猿後家は、人は口の中にある斧の意味をかみしめよとの教えだと深読みします。
この番組を見て、どもりの効用を考えました。僕は話そうとするとき、一瞬のうちに「このことばはどもらずに言えるか」を察知します。声が出そうにないと思えば、瞬間的に言い換えます。子どもの頃お使いに行って「たまご」が言えずに「鶏卵」と言って、八百屋のおばさんが、一瞬小学一年生が言っていることばが分からない風でした。オランダの世界大会で会った、小説家のデイビッド・ミッチェルさんも、子どもが決して使わないような言葉を使ってきたと言います。僕は、この思ったこと、言おうとして、そのまま瞬間に出してしまうことを、どもりそうな時にしてきた、訓練のようなものが、役に立っていると思うことがしばしばあります。
何か、相談を受けて話している時、一瞬思ったことでも、この言葉でこの人はかえって落ち込むことにならないか、傷つかないか、瞬間的に考えます。そして、口についてでてくる言葉は、それに近い言葉であっても、別の言葉がでてきます。これは、セルフヘルプグループの活動の中でも生かされました。否定的な言葉かけになるものが、気がつくと肯定的な言葉になっていることがよくありました。
どもるために、すぐに口に出すことができず、一瞬間を置く週間が、ことばを整えることに役立ったのです。
落語「猿後家」の太兵衛のような、おべんちゃら、思ってもいないこといっているわけではありません。言わなくてもいいことは言わない、気分を悪くさせてまで、思ったことを言う必要がないことは言わない。できるだけ、相手を「勇気づける」ことばを使いたい。これは、どもりの言い換えの技術が、自然と身についたものだと思います。
こう書いてくると、僕の身近な周りの人たちは、「????・・・・」と思うでしょう。基本的には周りの人は僕のことを言いたいことを言う「毒舌」、「厳しいことを言う」と、きっと思っていると思います。僕は、お世辞や、おべんちゃらは大嫌いです。常に本音で生きています。だけど、必要な時は、釈徹宗さんが言う「ことばを整えている」のです。
どもる僕たちは、立て板に水の流暢なことばは使えません。その分、人を傷つけることばは使わないようにしたいものです。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/01/20
NHKの番組に「落語でブッダ」という番組があります。落語も仏教も大好きな僕は、珍しくテレビを見ました。その日の落語は「猿後家」。
猿によく似た商家の後家さん(お家はん)は「猿」という言葉が大嫌い、その商家に出入りする太兵衛はおべんちゃらの得意な調子者。おべんちゃらでお家はんを機嫌良くさせて、食事や小遣いをもらっています。「猿」は禁句なのですが、つい奈良の話をしている時に、「猿沢の池」と言ってしまって逆鱗に触れ、出入り禁止。その後いろいろとおべんちゃらで挽回しようとしますが、やはり「サル」と言ってしまう。言ってはいけないと思えば思うほど言ってしまうことで、どたばたが起こります。
この落語を、宗教学者の釈徹宗さんが仏教にからめて深読みします。
釈徹宗さんは、仏教徒が生活の中で守るべき戒めとして十善戒を紹介します。不殺生(ころさない)(盗まない)などの十の戒めの中で、四つがことばに関する戒めだとして、仏教がいかにことばを慎重に扱おうとしていたかが分かるといいます。相手の気持ちになって、慈しみのことばをかけることを説いてきた。どうすれば、ことばは相手の心に届くのかを考えてきたと言います。
スッタニパータというお経の中に、「人は口の中に斧を持て生まれてくる」とのことばがあります。暴れることばは、斧であり、使い方を間違えたら、人を傷つけるし、自分も傷つけてしまうというのです。思ったことをそのまま口に出すことは、あまりいいこととは考えません。ことばを出す前に一旦整えて、いいタイミングで出す。このことばを言うべき人に言うふうなトレーニングを日々送る。それが、仏教の大きな特徴たせと、釈徹宗さんは言います。
十善戒の中のことばに関するもの
不妄語 ふもうご…うそをついてはいけない
不綺語 ふきご…おべんちゃらを言ってはいけない
不悪語 ふあっく…人の悪口を言ってはいけない
不両舌 ふりょうぜつ…二枚舌を使ってはいけない
釈徹宗さんはポイントとして、ことばは整えるけれど、できるだけ、思いと大きくずれたことばは使わない。良かろうと思って言ったことばが、相手を怒らせてしまったり、何気ない発言で相手を傷つけてしまったり、受け手の性格や人生観によって、解釈は全く違ってしまう。猿後家は、人は口の中にある斧の意味をかみしめよとの教えだと深読みします。
この番組を見て、どもりの効用を考えました。僕は話そうとするとき、一瞬のうちに「このことばはどもらずに言えるか」を察知します。声が出そうにないと思えば、瞬間的に言い換えます。子どもの頃お使いに行って「たまご」が言えずに「鶏卵」と言って、八百屋のおばさんが、一瞬小学一年生が言っていることばが分からない風でした。オランダの世界大会で会った、小説家のデイビッド・ミッチェルさんも、子どもが決して使わないような言葉を使ってきたと言います。僕は、この思ったこと、言おうとして、そのまま瞬間に出してしまうことを、どもりそうな時にしてきた、訓練のようなものが、役に立っていると思うことがしばしばあります。
何か、相談を受けて話している時、一瞬思ったことでも、この言葉でこの人はかえって落ち込むことにならないか、傷つかないか、瞬間的に考えます。そして、口についてでてくる言葉は、それに近い言葉であっても、別の言葉がでてきます。これは、セルフヘルプグループの活動の中でも生かされました。否定的な言葉かけになるものが、気がつくと肯定的な言葉になっていることがよくありました。
どもるために、すぐに口に出すことができず、一瞬間を置く週間が、ことばを整えることに役立ったのです。
落語「猿後家」の太兵衛のような、おべんちゃら、思ってもいないこといっているわけではありません。言わなくてもいいことは言わない、気分を悪くさせてまで、思ったことを言う必要がないことは言わない。できるだけ、相手を「勇気づける」ことばを使いたい。これは、どもりの言い換えの技術が、自然と身についたものだと思います。
こう書いてくると、僕の身近な周りの人たちは、「????・・・・」と思うでしょう。基本的には周りの人は僕のことを言いたいことを言う「毒舌」、「厳しいことを言う」と、きっと思っていると思います。僕は、お世辞や、おべんちゃらは大嫌いです。常に本音で生きています。だけど、必要な時は、釈徹宗さんが言う「ことばを整えている」のです。
どもる僕たちは、立て板に水の流暢なことばは使えません。その分、人を傷つけることばは使わないようにしたいものです。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/01/20