デイヴィッド・ミッチェルさんとの対話

 ミッチェルさんは、久しぶりに長い時間を日本語で話すことを楽しむかのように、吃音について、いっぱい思いを語って下さいました。講演とは違う、僕たち数人が聞く、とても贅沢な時間でした。
 ボイスレコーダに残ったミッチェルさんとの楽しい対話は、僕たちの宝です。その一部を録音されたそのままに紹介します。

ずっと私のどもりは、敵だと思っていました。このどもりを殺したい、攻撃したい勝ちたいと、長年長年そういう風に考えましたけど、いつもダメでした。どもりも私を攻撃しました。結局自分のなかの戦い、内戦です。長年のどもりとの戦いは、この「内戦」という言葉になりました。自分のなかの内戦がだめだ。だから結局、私が考え方を変わらなければいけないと思うようになりました。
 敵ではなく悪戯が好きな子どものように考え始めました。その時まで。ダウンダウンダウンしましたがその後はゆっくりゆっくりup up upしていきました。少しずつ流暢に話せるようになりました。

 私の友達にアルコール依存症者がいます。彼によると今は全然飲みません。成功しましたけれど、今もアルコール中毒者です。しかしアルコールを飲まないアルコール中毒者です。私も、全く同じようになりたいと思いました。いつも私のどもりは左の腎臓のように体の部分です。私のどもりもいます。存在の権利があります。私の遺伝子にあるもの俺は私の遺伝子と遺伝子を攻撃したくないじゃない。戦うのはおかしい。折り合いをつけて自分の吃音と私は私のどもりに、「いいです。はい。存在の権利を認め尊敬しますと言いたい」。そうすれば吃音は同じように言うでしょう。「あなたを存在の権利を存在尊敬します」。実際そう言ってくれました。

13歳のときには全く考えられないです。書いた本のプロモートをする時、ラジオとかアメリカのイギリスのテレビに出ます。どもりなのにテレビに出ます。そして、この小説は、私の話ですと言います。どもりの話を聴いていただいてありがとうございます。これは私のどもりの歴史です遍歴ですと言います。
 私とどもりの旅は、続いています。時々私のどもりは、「ねぇねぇねぇ俺はまだいるで」。大阪のおばちゃんのように「ねぇねぇねぇいるで」と言ってきます。今では私のどもりとは友情関係になりました。

 そう言う風に変わったきっかけはなんですか

 絶望です。もう我慢できない。どもりを攻撃できない。もういいよ。君の存在を認めるよ。だいじょぶだいじょぶと思いました。
 十代の子どもを持っている両親として、反抗期の子どもに、ゆっくりゆっくり責任を渡して行けば、子どもはそれに応えてきちんと責任を果たせるようになります。責任以上のことをいきなり渡してしまうと果たせなくなる。時々私はお父さんでした。私の吃音が私のお父さんでした。吃音が私の父親の割をしてくれています。吃音に自分が役割を与えることもあるけれども吃音が私に役割を与えることもある。

 だから、シンジさんの基調講演の要約を読んだとき、吃音は病気じゃないと読んだとき、シンジさんに探しましょうと話したいと思いました。今、こうして話せて、とてもうれしいです。

◇デイヴィッド・ミッチェル(英国)さん略歴◇
 デイヴィッド・ミッチェル(1969〜)は、今世界で最も注目されている小説家のひとり。代表作『クラウド・アトラス』(2004年)は、ブッカー賞にノミネートされ、ミリオンセラーとなった。1993年から8年間、広島に住み、英語を教えるかたわら、『Ghostwritten』 (1999年)や『ナンバー9ドリーム 』(2001)を執筆。その後、アイルランドに移り住み、2006年に『Black Swan Green』が出版された。これはミッチェルの自叙伝的な作品であり、自らのどもりを主人公である13歳の少年に託している。イギリスの言語療法の教育課程で教材として広く使われている。上記の記事は、イギリスのオブザーバー紙とオランダ人文科学・社会科学研究所の機関紙36号に同時掲載されたものである。ミッチェルがいかにどもりと向き合い、折り合いをつけて行ったかが克明に書き記されている。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2013/12/28